2021年12月30日木曜日

小説 SERAPH eau rouge #2 深淵 DEEP  作:川合 稔

<1>

 数日前・・・・・・。

 

(周りくどい話だ)

 王宮の一室で国王とグライドの話を聞きながらシビルはそう考えていた。ランバート城はガルド帝国のそれと比べれば小さ目ではあったが、その代わりに壁や床にしみ込んだ年月の皺は深い。恐らくは貴族同士が談話する時にでも使うのであろう、ソファとテーブルだけの部屋でシビルたちはランバート国王に会う事ができた。

「帝国の行動は、日増しに強硬なものとなっていく。その中で、抵抗を続けたそなたの勇気と行動力は尊敬に値する」

「有り難きお言葉」

 ゆっくりとした口調のランバート国王の言葉に、グライドは恭しく頭を下げて答えた。

 ランバート王国はガルド帝国と友好的とはいえない、しかし敵対している訳でもない。

協力も対抗もしないという中庸路線の外交を続ける国王が、レジスタンスとおおっぴらに会う訳にはいかなかった。それが謁見の間ではなく王宮の一角でこのように話をする事になった理由だという。

「しかし、もはや我々の力だけでは帝国に対抗することも困難になって参りました。既に動ける同士もわずか。帝国の監視下では、物資の調達すらままならない状況です」 

 机の上に置かれた紅茶にまったく口をつけずグライドは淡々と、しかしはっきりとした言葉で国王に自分たちの現状を伝えた。ネルヴェの戦いでレジスタンスの実動部隊は壊滅、帝国に名の知れているグライドを初めとする幹部たちは国外への脱出を余儀なくされ、帝国内にはレジスタンスとして活動できるレジスタンスは事実上残ってはいなかった。それとは対称的に帝国の反体制派への弾圧は激しさを増し、帝国の情報を探る事はおろか自衛の為の剣一本を調達する事さえ困難になってきていた。

「なにとぞ、ご助成を」

 グライドはそう言うと両膝に手を着きながら深々と頭を下げた。

 その光景を見てシビルは妙な感覚を覚えた。助けを乞う事、それは敗者が勝者に対して行うものとばかり思っていた。しかし今のグライドは頭を下げさえしているものの、それは決して敗者の姿勢ではない。

「無論だ。帝国の膨張政策が他国の侵略を意図していることはもはや明確。

わが国内でも帝国の動きが目立ち始めている。全面的に協力させてもらおう」

 下げられた頭に対して国王はそう言って大きく肯いた。

 助け、助けられ、協力し、協力し合う。それはシビルにとって未知の考え方だった。ブラットバーンズでは命令する者と命令される者の二つしか存在しなかったからだ。同じ立場で助け協力し合う事などありはしなかった。

 一瞬、宵闇に流れる黒髪の姿が脳裏に浮かんだ。

(何を思い出しているんだ、オレは)

 心の中で自嘲するようにつぶやきながらシビルは目を細める。その細められた視界の端に、傍らで座る金髪の少女の姿が入り込んだ。 アーネスト・エーレンベルグ、アネットで構わないと本人は言った。この少女もまたあの黒髪を知っているはずだ。しかしシビルはそれを声に出して確かめようとはしない。アネットもまた同じ事だった。それが何故は判らない。しかし同じ存在を内に秘めているという事でシビルは何か不思議な感覚をこの少女に抱き始めていた。

「キール、現在の帝国の動きを」

「ハッ」

 国王の言葉にそれまで黙ってその背後で両手を後ろに組んで立っているだけだった男が初めて口を開いた。

「ランバート王国魔術師団長で、国王陛下の補佐をさせていただいております。

キール・コンラート・ラ・ランバートと申します」

 口髭をたくわえた壮年の男はそう言ってグライドたちに向かって軽く会釈をした。

身体の線は同年代のグライドに比べて遥かに細く、神経質そうな目でこちらを見ている。

(油断のならない男だ)

 シビルは本能的にそう思った。例えその外見が細く弱々しくとも脅威にならない訳ではない。薄く剥がれた黒曜石は脆い存在だが、その鋭さが肉体を切り刻むには必要十分であるように。

 その黒曜石の目がシビルを見た。そこには高貴な者が無意識の内に他者へと向ける蔑みの色が込められていた。彼らは気が付かない、高台に立つ人間がその下にいる人間を見るには視線を下ろすしか、相手を見下すしかないという事を。この時のキールの目もそんな目だった。

 そう考えればガルドはある意味、公平で平等な男だと言える。ガルドにとって人間はまつろう者とまつろわぬ者の二種類しか存在しない。貴賎も性別も年齢も何も関係ない。従えば殺さず、従わねば殺す。ただそれだけ。

 キールはそんなシビルに構わず話を続ける。

「どうやら帝国は、この国の森に住むという一族の村を探しているようであります」

「村を?」

「はい。もともと、我が国の広大な森林を守護していると言われる一族の村なのですが、

どうやら帝国はそこに我々が古代種と呼ぶ種族も隠れ住んでいると、そう考えているようなのです」

「古代種・・・・・・」

 キールの言葉を受けてのアネットのそのつぶやきに、シビルは眉間に皺を寄せた。

以前、ガルドがそんな話をしていた覚えがあるからだ。ブラッドバーンズ隊長だった頃の記憶の中からその単語が掘り起こされる。鼻孔を詰まらせるほどの血の匂いと共に、そして鼓膜を埋まらせるほどの悲鳴と共に。

「かつて、創造主が我々に与えたという〝赤き水〟。

伝説の大戦を経て、我々が失ってしまったそれを今なお持ち続けているのだとか」

「フム」

 グライドはあごに手を当てながら唸った。

 神世の昔、世界の全てを創り出したという創造主。その創造主が人に与えたという〝赤き水〟。世界に恐るべき豊穣をもたらす力、その源。しかし歴史からも忘れ去られた伝説の大戦、その戦いの最中にそれはことごとく大地に流れ出て失われたと言う。

 ただ一部の人々を除いて。

「帝国は、それを欲しているというわけなのか」

「恐らくは」

 グライドの問いにキールが答える。

 いや、それは事実。シビルの記憶はそう答える。かつてガルドがよく言っていた。

世界を完全な形に戻すには〝赤き水〟が必要だと。それは完全な輪を創り出す為には必要不可決なもの。いつからだろう、ガルドがその話をシビルにしなくなったのは。それは自分が要済みになったからだろうか。

「無論、赤き水も古代種も伝説として伝えられているに過ぎません。ですが、帝国が手にしている力はまさに伝説として伝えられる力そのもの。帝国がそれを手に入れれば、どのような事態となるのか見当もつきません」

 皇帝ガルド。あの男は自分に何を求め、そして何を求めなかったのか。

そもそもどこから連れてきて、どこへ連れて行こうとしていたのか。

 シビルは隣でキールと向かい合うグライドに目を向けた。この男もまた自分に何を求めているのか判らない。そしてどこへ連れて行こうとしているのかも。奇妙な話だが、シビルはグライドにガルドと同じものを感じていた。自分にとっては未知で得体のしれない何かを。

「十数年前にも、古代種が住むという村に帝国が攻め入ったことがあるようですが、

その時は発見に至らなかったと思われます。しかし未だに探し続けているところを見ると、

よほどの確信があるのかもしれません」

 キールのその言葉にシビルは、はっとして顔を上げた。それは自分にとって未知の情報だったからだ。自分はそんな話を聞いていない、ブラッドバーンズ隊長はそんな話を聞かされていない。一瞬、シビルは不安を覚えた。帝国と決別したとは言え、帝国でのその過去は間違いなく自分を構成するものの一つ。それがキールの言葉に揺らぎそうになっている。

 自分は初めからガルドの人形に過ぎなかったのか、人形にしか過ぎないのか。

それが自分の生まれてきた理由でさえもあるというのか。

ならば今、自分がこうしている事に意味はあるのか。ただ糸の操り手が変わっただけではないのか。

 身体が動いた。

「シヴィレアー?!」

 無言で立ち上がったシビルを見て、アネットが驚きの声を上げた。残る三人はただ黙って視線だけをそちらへと向けた。中断された会話が気まずい空気となって宙を漂う。

「話の途中ですまない、少し疲れているようだ。失礼する」

 まるで他人事のように言うとシビルは立ちあがり、国王へ軽く頭を下げるとそのまま扉へと向かった。背後でアネットが再び何かを口にしたようだが聞こえない。そのまま自分の手で扉を開けると外へ足を踏み出した。そして自分の手で扉を閉める。もう誰の声も聞こえない。何も聞こえない。


 いや、聞きたくなかった。


<2>

「シヴィレアー・シュタウフェインを逃がしたそうですね」

 陽の光の存在さえ知らないであろう暗黒の空間。

不愉快な湿気が肌にまとわりつくこの地下洞でこだますその声に、ガルドは慌てる様子もなくゆっくりと自分の背後を振り返った。

「ザウバー、そんな事を言う為にわざわざ余をこんな所に呼び出したのか」

 そこには奇妙にねじれ曲がった仮面をつけた人物が立っていた。

紫の長衣に身を包んだその姿は道化師のようでもあったが、それにしては気配が尋常ではない。気配がない気配がするのだ。目の前に居るというのにまるでそこに何も無い、

ぽっかりとそこだけ世界に穴が開いているような感覚さえ抱かせる。

 自らの力によってこの闇の中でも目を効かせる事のできるガルドだが、その力をもってしてもこのねじれた仮面の下を、その素顔を見る事は不可能であった。

「かねてより陛下はお探しでしたね」

 ザウバーは唐突に話を切り替えた。この人物はいつもそうだ。その言葉、その行動、その思考、そしてその存在でさえも唐突であった。しかしすでにそれに慣れた様子のガルドは黙って話の続きを待つ。

「光、そのものに成り得る存在」

 黄金の杖を持つガルドの右手が微かに動いた。

「陛下がお探しのものがまもなく見つかります」

 それは淡々とした声だった。とても人の喉から発せられるものとは思えないぐらい抑揚がなく、相手の真意を確かめようにもそもそも意志さえないかのように。

「すべては手はず通りに動いています。陛下は、ほどなくその目的を成し遂げるでしょう」

 ザウバーの仮面が揺らいだような気がした。果たしてそれはねじれた表面が見せた錯覚か。だがガルドは黙して何も語らない。ザウバーの報告は待ち望んだものであるはずなのに、ただ黄金の杖を握る右手の力だけを強める。何かに耐えるように、何かを絶えるように。

「輪を繋ぐのはあなたです」

 そのザウバーのささやきに、黄金の杖が地底の岩を激しく突いた。空気を割るような金属音が響く。

「グフフ、それはいい」

 ガルドは歯をむき出しにして笑う。

「グアーッハッハッハッ!」

 お互い以外何も見えない暗黒にガルドの笑い声が響き渡った。

その闇の彼方に居る何かに聞かせようとするかのごとく。いつまでもいつまでもガルドは笑い続けていた。やがてそれが獣の雄叫びとなるまでただ笑い続けていた。

 ねじれた仮面はそれをただ見ていた。


<3>

 黄金の風が殺風景な廊下に輝きと共に舞う。

「シヴィレアー」

 あれから当てもなく廊下をさまよい歩いていたシビルに初めて声を掛けてきたのはアネットだった。グライドから話が伝わっているのか、すれ違う王国の兵士や文官たちはシビルに対して一定の距離を置いているようだった。見えない檻に閉じ込められた獣を相手にするような雰囲気の中をアネットは構わず、はきはきとした声でシビルの名を呼びながら近付いてきた。何故かその姿がシビルにはまぶしく感じられた。

れは決してその黄金色の髪が陽に照らされて輝いているせいではない。

「シヴィレアー、大丈夫なのですか」

「シビル」

 質問の答えになっていないシビルの言葉に、アネットは足を止めて不思議そうに口を開けた。

「俺はあんたの事をアネットと呼ぶ。だからあんたは俺の事をシビルと呼べばいい」

 しばらくアネットは何を言われたのか判らないようだった。軽く口を開けたままその青い瞳でシビルの顔を見上げたままだった。窓から差し込む午後の光が二人を照らし出すが、シビルの銀髪はアネットのそれとは異なり輝きを放ちはしない。

「そういう事ですか。判りました、シビル」

 そう言ってアネットは一人うなずいてから、閉ざした口元に軽い笑みを浮かべた。

「あ、ああ」

 この時、シビルは困っていた。自分に向けられたその笑みにどう反応していいか判らなかったからだ。だからただ曖昧な返事をして誤魔化す。それはまるで呆けているかのようでさえあった。

「ところで明朝から私たちもランバートの部隊と共に、大森林で古代種の村の探索に参加します」

 アネットの言葉に、シビルは廊下の窓から南の方角へ目をやった。そこには深緑の大海原が遥か彼方まで続き、蒼天が創り出す青と白のタペストリの下で風に吹かれて波打っていた。その中へ差し入れるには人の手は余りに小さい。

「シビル、あなたもご一緒して下さいますね」

 それは質問、ではなく確認。二つの青の狭間を駆けぬけてきた風にあおられた金髪を右手で押えながらアネットはシビルに告げた。

「それはグライドの意志か」

「いいえ、あなたの意志です」

 眉間にわずかな皺を寄せて言ったシビルの言葉に、アネットは間髪入れずにそう返した。

言葉だけを聞けば意味のないような会話になったが、それに込められた意志は互いに通じ合う。そんな気がした。

「いいだろう」

 シビルは眉間の皺を吹き飛ばすように、鼻で軽くため息をついてから答えた。

そのため息も大森林からの湿った風に飲み込まれて消える。今日は暑くなりそうだ。

目の前で枝垂れるアネットの髪の毛を見ながら、シビルは季節の体温をその肌で感じ取っていた。

 ここはランバード、冬と夏の狭間の深き森の王国。


 まぶしい昼の日差しに逆らって顔を上げると、そこには羽を広げた飛龍の姿が目についた。サウスランバート通りにあるホテル・リンドブルム、その飛龍はここが王室御用達である事を示す紋章であった。左右に獅子と馬を従え、百合の飾りを付けた兜と王冠がその頭上に輝く。その下に刻まれるのは「常に雄々しく我ら誇り高く」の王家の家訓。

 杖を手に通りを歩く紳士、木陰の下で話に花を咲かせる婦人たち、大きな包みを担ぐ大男、自分と同じ目の色の人形を腕に抱いた少女、背筋を伸ばしてさっそうと歩く身なりの良い女性、その誇り高い紋章の下を行く人々の顔はどれも明るい。銅板に刻まれた羽が左右に大きく広げられているように、人々の背中でも羽が思うがままにはばたいている様が見えるようだった。

 これも街なのか。

 ざわめきの雑踏の中でシビルだけが違和感に包まれていた。帝国の街がどんよりと曇った冬の夕方だとすれば、このランバートの城下街は夏の晴れた空のように感じる。何が違うというのだろうか。歴史、文化、人種、政治、宗教、それとも。そこで人が人の営みをしているという事だけは決して違いないというのに。

 シビルは、はっと我に返って同行者の姿を追う。居るか、居た。

大きな剣の看板がぶら下がった店屋の前で、流れの傭兵風の男と話をしていた。今はそんな事よりももっと身近な問題を問わねばならなかった。

「アネット、聞きたい事がある」

 シビルがそう言って近付いていくと、傭兵風の男は軽く手を振ってその場から離れた。

別れの言葉を軽く口にしてからアネットはシビルを振り返る。

「私がお答えできるような事ならばいいのですけど」

 少しからかうような口調でアネットが言った。

「大森林の探索は明朝からだと言っていたな。それなのにどうして今日、しかも街にオレを連れてきた。何の関係もないだろう」

 指で自分の金髪を耳の後ろへ流すアネットを見ながらシビルは詰問した。それに対してアネットは声を出さずに顔の表情だけで微笑んで答えた。シビルはアネットのその理由の判らない仕草に、いらだちに似た感情が胸の奥からしみ出すのを感じていた。

「何の関係もない? いいえ、大いに関係があります。例えば」

 刹那、アネットの足が地面に置かれたまま擦り動いた。常人から見れば何気ない動作、しかしシビルの目はそれ以上のものを見た。足の動き、手の仕草、体重の移し方、そして視線。それらはアネットが腰からぶら下げた長剣を抜き放つ様をシビルに予知させた。

 斬られる。

 長年の経験から身の危険を察したシビルは、そう考えると同時に身体を動かした。

しかし、すぐに自分の行動の無意味さを知る。何故なら今のシビルは短剣一つ持っていなかったのだから。舌打ちの代わりに眉間に皺を寄せると、シビルは腰を落として徒手空拳で鋼の刃に対抗しようとした。だがそれもまた無意味だった。

 何故なら鋼の刃は鞘の中に収められたままだったからだ。いつの間にかアネットは剣客から少女の顔へと戻り、涼しげな様子でシビルを眺めていた。

「案外、あんたも人が悪いな」

 何かをもてあますように両手の指を数回動かしてから、シビルもまた構えを解いてただ立つためだけにそこに立ち直した。

「この先の広場で市が立っているそうです。街の武器屋よりそのような場所の方が良い物が見つかるかも知れません。行ってみましょう」

 アネットはそう言って金髪を翻すと先に歩き始めた。歩きながら白のスカートを踊らせるその姿はもうただの街娘に過ぎなかった。そうなると腰の長剣でさえ装う為の飾りにしか見えなくなる。だがその外見だけに惑わされてはいけない事をシビルは痛感した。剣を抜かずに殺気だけを放つ事などそう安々とできる事ではない。

 不思議で不可解、それが女というものだろうか。明らかに自分とは異なるその姿を見ながらシビルは思った。

「あ、お金の心配なら無用です。どうぜ無一文なのでしょう、シビル?」

 何の前振りもなく顔だけで振り返ると、右手の指で後ろで突っ立ったままのシビルを指差した。事実を有りのままに指摘されたシビルは何も答えない代わりに歩き始めた。

 実に不思議で不可解、だが不愉快ではなかった。


 街の中心部から少しはずれた所にアカデミー通りがある。しかし通りの名の割に周辺には学院らしきものは何もない。士官学校も王立学術院もここからは遠い。頭上に洗濯物が祭りの旗のように並べられた集合住宅の間を歩きながらシビルは頭の中で疑問を浮かべていた。

「おかしいでしょう? 学院も何もないのにアカデミー通りなんて」

「あ、ああ」

 たった今頭に浮かべたばかりの事を言い当てられたシビルは再び曖昧な返事をして誤魔化す。どうもこの金髪の少女と共にいると調子が狂わされて仕方がなかった。

「何でも昔、魔術士を人為的に育成しようと魔術アカデミーが作られたそうです。

しかし素質に大きく左右される魔術を教育と訓練でどうにかしようとしても成果は上がらず、十数年前の内乱でアカデミーの建物が破壊されるとそのまま放置されアカデミーそのものも消滅したそうです」

 魔術士。

 その単語にシビルは深い皺と長く伸びたあご髭を思い出した。ウォーレス、彼もまた自分に何を見ていたのだろう。自分に向けられたその瞳は今でも思い出せるが、その奥に込められた想いは今となっては知るすべもない。

 もし。

 もしもあの時、自分が何かをしていれば、事態はどうにかなったのかも知れない。

具体的に何をどうしたらよかったのかは判らないが、可能性がそこに秘められていたという事だけは確実なものとして判る。いや、そんな事を言い出せば自分の過去に可能性は無数にちりばめられたいた。だが過去の自分はそのことごとくを無視した。無限のはずの未来を、自分自身の手で狭めていった。そう例えば今頭上に広がる空が、人の手によって建てられた家々の屋根で狭められているように。

 そんな事を考えながら歩いていると、その狭められていたはずの空が開けた。

「そして、ここがそのアカデミーの跡です」

 妖精の踊り場のようにひしめき合う集合住宅の中でぽっかりと開いた空き地。

そこには大小様々な露店が軒を連ねていた。

売り手も、そして買い手も、人も物も何もかもがごちゃごちゃで統一感というものがまったくない。歪雑な空間に熱気があふれている。表通りとは異なるその雰囲気にシビルは街が持つもう一つの顔を見た気がした。

「こういう場所は初めてですか」

 感心したような、驚いたような、そんな目を市場に向けていたシビルの顔の前で、

アネットが意識を確かめるように手を振った。

「いや、そういう訳じゃない。ただ」

「ただ?」

 目を市場とそこにいる人々の群に向けたままのシビルの言葉にアネットが相づちを打つ。

 壷に入れられた油、篭からこぼれ落ちる果実、ぶら下げられる豚の足、山のように適当に積まれた衣類、穴の開いた鍋を叩いて直す職人、暇そうに煙草を吹かす老人、珍しい異国の品を売る女性、宝石を一つ一つ手にとって確かめる商人、それを珍しそうに見上げる幼い少女、柱に繋がれたまま主を待つ馬。そしてそれらを眺める銀髪の若者と、金髪の少女。

 今まで自分は傍観者だった。そこにいながら、そこには含まれなかった。世界とは切り離された存在、そんな感覚があった。しかし今、ここに自分はいる。この歪雑な市場を構成する一つのものとしてここに存在する。ここに含まれている。

「何でもない、剣を探そう」

 シビルは頭を振ると、今度は自分が先頭に立って歩き始めた。やや頼りなさげな足取りで進むシビルの後を、アネットはただ黙ってついていく。人ごみの中を行く二人の姿はまたたく間に市場の空気に飲み込まれて行った。

 それはごく当たり前の光景として。


「旦那、この大剣なんかどうだい。鉄兜だって真っ二つですぜ」

 そう言って隻眼の男はかなり肉厚の大剣をシビルに手渡した。

剣を持つ感覚にも剣を振るう感覚にも慣れたシビルであっても、この大剣の重さは未知のものだった。確かにこれならば鉄兜をかぶった相手であっても脳天ごと叩き割ることができそうだ。

「それにこのこしらえを見て下せえよ、そこいらじゃ手に入らない名剣ですぜ」

 実に重たく厚い大剣であったが、シビルに扱えぬ代物ではなかった。

膨らんで張りのでた腕の筋肉を店主に見せ付けるようにして片手でその大剣を構えてみせる。ほこり立つ市場の往来の中であっても、その剣は輝きを失うことなく損なうことなく堂々と陽の光を照り返していた。

「どうだい、その辺のやつらとは違って旦那なら十分にこれを使いこなせるってもんだ」

 見え透いたお世辞。大きく欠けた前歯を見せながら笑う店主にシビルは冷ややかな眼差しを送る。しかし名剣であるというのは本当に違いない。目は店主へ向けたままでその視界の端で大剣を見ながら、何度か持ち変えたりしてその感触を確かめる。

 この大剣にしようか。シビルがそう思い口を開いたその時、

「シビル、あなたにはこちらの方がよろしくって」

 管弦曲を思わせる澄んだ声で横槍が入った。

店主の舌打ちする音を聞きながらシビルが顔を横に向けると、アネットが萌黄色の鞘に収められた一振りの剣をこちらに向けて差し出していた。今手にしている大剣に比べるとその剣は細く頼りない。それは大きく強固な石橋を渡っている人間に、そよ風にも揺れる吊り橋から手招きしているようなものだった。

「だ、旦那ぁ」

 だがシビルは彼女に従った。店主の情けない声を聞きながら大剣を無造作に投げ捨てると、引き寄せられるようにそれへと手を伸ばしそして握りしめた。春の光に芽吹く若葉のように生命力あふれる萌黄の枝へと。

 鞘とは対極的に剣の柄の部分は秋の落ち葉を思わせる山吹色に染められていた。枯れ葉を砕くように手をゆっくりと握りしめると、まるで誰かと握手しているかのようにぴったりと剣は手の中に収まった。

 そして何かの儀式のように悠然とした動作で鞘から剣を引き抜いて行く。萌黄色の中から現れたのは軽く反った片刃の曲刀だった。剣の形式といい、そのこしらえといい、東域で打たれた剣に違いなかった。どれだけの時間と道を経てここまでやってきたのか判らない異国の剣が今、手の中にある。

 風に撫でられたような波紋を浮かべる刃を眺めていた時、その表面に映り込むものがあった。

気付いているのか気付いていないのか、そこに微笑を浮べるその姿をシビルは見た。

「これをもらおう」

 剣を鞘に収め直すと、シビルは店主に向かってそう言った。

店主が眉間に皺を耕しながらうなづき、提示された分だけの金貨をアネットが支払い終えると、シビルは剣の鞘から伸びる紫の寄り紐を腰のベルトに巻き付けた。そして手を離すと剣の重みがベルト越しに体へと伝わる。

しかしその重さに反してシビルの心は何故か軽やかになっていた。

 実に不思議だった。


<4>

「深いな」

 休憩の途中、グライドがぽつりとつぶやいた。

「そりゃあそうだろうて。ワシらもひいじいさんの代からここで猟師をしておるが、

未だにその全てを知っているわけでない」

 グライドのつぶやきを聞いた道案内役の老人が、顔中の皺を寄せ集めながら笑ってそう言った。

 城の窓から見た時その大地はずいぶんと平坦に思えたが、実際に来てみると全然違う。

波打つようにのたうつ大地が道行く者の体力を容赦なく奪い、巨人が石遊びでもしたのか

人の手では到底動かせないような大きな岩々が行く手を阻む。

何より緑の天井を支える種類も大きさもばらばらな木々が人より圧倒的に勝る数で辺りを支配している。

 本当にこんな所に村があるのだろうか。同行するランバート王国の兵たちは口にこそしなかったが、その表情はそんな疑問を雄弁に物語っていた。飛龍の刻印の入った鉄兜の下から除く顔には疲労と困惑の色がありありと浮びあがっている。

 ランバート城をシビルたちを含む探索隊が出発して三日が経とうとしていた。探索隊は十人づつ九つの分隊に別れて行動しているが、もはやその内の何隊が未だこの森に留まっているのかさえ判らない。

 まるで橋のように渓流の上で横たわる倒木に腰かけながら、シビルは同じように休憩する周りの者たちの顔を何気なしに眺めていた。シビル、グライド、アネット、道案内の老人、そして王国兵が七人。それは余りに少なく、小さく、そして非力に思えた。

「それでおじいさん、道は間違いないのですね」

 のたうつ大地に食い込むような渓流で顔を洗ってからアネットが道案内の老人に聞いた。

自慢の金髪は随分と汚れて輝きを失ったように見えるが、相変わらずその青い瞳は木々の合間から覗く碧空のように美しい。

「この川沿いにもうしばらく行くと小さな湖がある。ひいじいさんの話ではそこには決して近付いてはいけない、その湖を見たら目がつぶれると言っていた。ただの迷信と今まで気にしていなかったが、お前さん方の話からすると案外ひいじいさんはその隠れ里とやらを知っておったのかも知れんな」

「もうしばらく、ね」

 前歯を人差し指でこすりながら言った老人の返事に、アネットはやや不信めいた声を上げた。その、もうしばらくという言葉をもう三日も聞かされているのだから仕方ない。森と共に生きる猟師は他の人間よりも時間の流れが悠久に近いのかも知れない。シビルはそう思い、一人納得していた。

 しかし。

 シビルは剣の柄に手を置いたまま頭上を見上げた。ネルヴェ近くの森でかつての部下たちに襲われたのはつい先日の事だ。しかしあの時、魔剣コルブラントと共に駆け抜けたあの森とは、ここは余りに違いすぎる。ここは余りに深く、広く、遠く、それはあたかも人を拒んでいるようであった。その介入を、その侵入を、何よりその存在を。

 何を馬鹿な事を考えているのだか。そう思い水平に戻した視線の先にグライドがいた。

その茶色の瞳がこちらをを向いている。そこには妬みも、恨みも、悲しみも、憎しみも、何もない。少なくともシビルの知る感情はどれも込められてはいない。ではそこにあるものは何か。判らない。

「シビル?」

 アネットの呼びかけで気が付くと、シビルはグライドの前まで歩き出ていた。事情を知らない周りの者はアネット以外誰も気にもかけない。これは好機だった。告げるべき事を告げ、聞くべき事を聞き、意志を言葉として語る時だと。それはただ当事者たちだけが、何かしら共通するものを抱いた者同士だけが気付く。

「俺はお前の同志を殺した。これまでにも、数えきれぬ程の人間を殺してきた」

 シビルはいきなりそう話し始めた。

しかしグライドは根元から幹が二股に別れた巨木に背中を預けたまま黙っている。

それは多分、話を続けろという事なのだろう。その真正面で立ちはだかるようにしてシビルは言葉を続ける。その手を山吹色に添えながら。

「何故その俺を助けた。何故俺に情けを掛ける。何故俺が今、ここに生きて立っている。何のために。俺があんたの為に何かできるとでも。あんたが、俺の為に何かできるとでも。どれだけ考えても、それが理解できん」

 何故、何故、何故何故何故何故、何故に疑問を浮べ、そして考える。今までならばそれは必要のない思考だった。しかし今はそうしなければならない。誰に言われた訳でもないが、そんな脅迫観念がシビルの背中に取りついて久しかった。

 だが考えてみた所で、何も判らない。金髪の少女の仕草一つ判らないのに、自分と自分を取り巻く環境のことなど判りようがない。だからシビルはグライドに訪ねる事にした。素直に、実直に、ありのままをそのままに。

 グライドが巨木から背を離した。そして右足を踏み出し、一歩シビルへと近付く。

「そうだ。お前は我々の同志を殺した。これまで多くの人々を殺してきた。お前をあのとき助けたのも、

事情を吐かせるためだった。あの状態のお前ならば、すぐに始末できただろう」

 さらに左足を踏み出し、さらに一歩シビルへと近付く。

「だがお前は魔剣によってその心を喰い潰され、帝国に利用されてきた。お前のような者は、他にも多くいるはずだ。それらを抜きにしては、真の解決には達しない。そう考えたのだ」

 その茶色の瞳がシビルの目を見る。グライドの語る言葉は聞き流すだけであれば陳腐なものだ。しかしその瞳が言葉に誠意が込められている事を聞き手に判らせる。真剣で互いに打ち合うような、そんな切迫した雰囲気がそこにあった。

「私は見届けたい。いや、この手で決着をつけたい。私だけではない。我々の同志の心は、皆そうだと思う。お前も見届けて欲しい。自らの手でその心を取り戻すことを。そして取り戻した自分の心で感じ、行動し、すべてに決着をつけることを」

 そう言いながら伸ばされたグライドの右手がシビルの左肩に触れた。

「そして私には、そうすることでしか、自分の過去と決着をつけられないのだ」

 幾重にも重なる緑のざわめきの中で、グライドは逃げる事なくシビルの目だけを見る。

幾多にも連なる水のせせらぎの中で、シビルはただまっすぐにグライドの目だけを見る。

 その言葉の全てを理解し、全てに納得した訳ではない。しかしその言葉の中に自分のやれる事とやらなければならない事が込められているような気がした。それはある種の予感のように。

「よし、出発だ」

 グライドの掛け声と共に休憩した者たちはもぞもぞと動き出し、グライド自身もシビルから離れて道案内の老人の所へと足を向けた。もうシビルの肩に触れるものは何もない。しかしシビルはしばらく自分の右肩を意味もなくただ見つめていた。

 何時の間にかシビルの手は萌黄色の剣から離されていた。


 緑、と文字で表すならばたった一文字で済む。しかし実際にその中に身を委ね自分の眼で森を眺めてみると、いかにそれが誤解でありまた傲慢であるかと思い知らされる。それほどまでにこの森の木々は草花はその緑は、多彩で豊かで奥深い。それをたった一文字で表してしまう辺りに人間というものの程度の低さが現れているような気がした。

 前を行くアネットの一房に束ねられた後髪を見ながら、シビルはふとそんな事を考えていた。らしくない。そう思い自嘲的に一人、額に眉を寄せる。

 グライドは心を取り戻せと言った。だがどうしろとは言わなかった。どうすればいいのか判らないものを、もがきながら探し出せということなのだろうか。随分と身勝手な話だ。中途半端に手を差し伸べられるぐらいならば、最初から何もしなければいいのに。道案内の老人と共に先頭を行くグライドの姿は、その後ろの兵士たちと無数に張り出した木々の小枝に阻まれて見えない。

 アネットが腰をかがめた。見ると木の枝に張られたクモの巣を避けるためらしい。後に続くシビルはそのまま足を進め、右手でその模様を薙ぎ払った。手にべたべたとした感触と共に白い筋が幾重にも絡み付く。

 実に不愉快だった。手身近な木の幹にこすりつけてそれから逃れようとする。

だがしぶとくその感触は残り続ける。今度は自分の服にこすりつけたりもしてみる。まだ逃れられない。不愉快だ。

「どうかしましたか、シビル」

 そんな風に不自然な動きを繰り返していると、前を行くアネットが立ち止まって振り返りながら声を掛けてきた。この少女には背中にも目があるのだろうか。シビルはその勘の鋭さにごく自然に驚いた。

「いや、何でもない」

 シビルはわざとそっけない態度で答えた。クモの糸を払うのに悪戦苦闘していたなどとは彼女に言いたくない。なぜだがそう思った。アネットはそれを聞くと「そうですか」と言って再び前を向いて歩き始めた。

 渓流沿いの道は険しく狭い。いや、そもそもこれを道と呼ぶことさえ怪しい。

起伏の激しい大地を息を切らしながら越え、時として渓流の冷たい水に足を浸し、頬を鞭打とうとする木々の枝を避ける。これほどに人を拒絶する土地になぜ住まいを築いたのか。それほどまでに人を欺き人から守る必要があるのか、古代種というものは。隠し続けてどうするつもりなのだろうか。初めからなかった事にするつもりなのか。古代種の血を、力を、そしてその存在を、その全てを否定するのか。

 否定。

 自分もまた否定された存在だ。帝国から、ブラットバーンズから、ガルドから、ボーナムからコージーから

アレックスから、そしてヴァイスから。それまでの全てからその全てを否定された。あらゆる糸を絶ちきられた時にグライドに会い、そしてアネットに出会った。彼らは自分の事を否定しなかった。だから自分は今ここにいるのだろうか。否定されない為に。

「アネット」

 ふいにシビルはその名を口にした。呼びかけるつもりはなかった、それはつぶやきのようなものだった。しかし金色の髪は翻る。大きな窪地を下りきった所でアネットは後ろを振り返り、そしてシビルの姿を見上げた。

 だが振り返るだけでアネットは何も言わない。ただ窪地の底からシビルの事を見上げているだけだった。何かを確かめるような、試すような、そんな感じを帯びたその青い瞳で。ふとその姿に黒髪の若者が重なって見えた。

「あんたは・・・・・・」

「うわああ!」

 シビルが問いかけの声を上げたのと同時に、グライドたちが先行しているはずの方向から悲鳴が聞こえた。シビルとアネットは同時に声のした方を見ると、言い合わせた訳でもないのに同時に走り始めた。アネットは窪地を駆け登り、シビルは駆け降りる。だが二人とも目指す方角は同じだった。


 それは何とも無様な有様だった。二人が地に伏し、もう二人は傷つき退き、剣を構えて立っているのは

三人だけだった。グライドは道案内の老人をかばって身動きが取れないでいる。

ランバートの兵士たちが立ち向かっているのは、馬ほどの大きさの巨体を八本の足で支える紫色の

クモだった。その体にはまるで返り血を浴びたような赤色の紋様が浮び上がっている。

「シェロブ! なぜこんな所に」

 アネットが腰の長剣を抜き放ちながら驚きの声を上げた。

それもそのはず、シェロブは木々の密集する森の高い所に巣を張り巡らせ、その糸に捕らえられた鳥などをエサとする巨大クモだ。そのようないわば受け身の狩猟を行うシェロブが、地面に下りてきて自ら獲物に襲いかかる事などは聞いた事がない。

 だが今、実際にそのシェロブが人間に襲いかかっている。魔物どころか人間すら相手にしたことがないであろう若い兵士たちは恐怖で醜く歪んだ顔をシェロブに向けていた。

 そのシェロブが細長い足を振り上げ、そして横向きに大きく薙ぎ払った。

兵士の一人がそれを剣で受けとめ、そしてそのままの体勢で地面に叩き付けられた。二、三度大きくその身体がひきつけを起こした様に動いたが、それっきり二度と動かなくなった。残った兵士から変質者を見た女学生のような悲鳴が上がる。

 確かランバート王国は十数年前の内乱以降、現国王のともすれば弱腰にも思える中庸路線の外交と、消極的な内政のおかげで発展もしないが衰退もしない平和な時期が続いていると聞く。兵士たちの身に付けた真新しい鎧兜と、刃こぼれ一つない剣を持つ手の震えが、その平和が軍隊から牙をもがいてしまった事がよく判る。狂気とも思える膨張政策で砕けぬもののないほどに牙を磨き上げた帝国軍とは

対称的だ。

 つい先日までその帝国の旗の中に居たシビルが剣を抜いた。それまでの漆黒の鞘ではなく、萌黄色の鞘に抱かれたその剣を。

 シェロブがシビルとアネットの方を向いた。目の前に残った兵士二人より、シビルたちを脅威とみなしたようだ。野生の本能は現状を正しく理解している。少なくとも無様な醜態をさらす兵士たちよりは。

「お退き下さい」

 アネットは文字通り目一杯に目を見開いている兵士たちにそう言ってシェロブの前に進み出た。背筋を伸ばしながら長剣を中段に構える。身体の動きに品がある。恐らくきちんとした流派で剣術を学んだに違いない。そう言えばヴァイスも剣の運び方に品があった。

 風を切る。

 刹那、シェロブが前足を振り下ろしてきた。アネットはそれを長剣で受け止める。しかし先程の兵士のように地面に叩き付けらはしない。絶妙の角度と力加減でシェロブの前足を受け流すと、そのまま返す剣で動きの止まった前足を切り落とした。

 紫色の体液を傷口から吹き出させながらシェロブが一歩後退する。

 アネットはその体液を浴びるのも構わずシェロブ目がけて走り込み、飛び上がったかと思うとそのまま目と目の間へ長剣を突き立てた。勢い良く皮膚を貫いた長剣は刀身の三分の一ほどがシェロブにのめり込み、

アネットはその長剣を手放すと後ろ向きのまま地面へと飛び下りた。

 勝負はあっけなくついた。ほどなくシェロブは残る七本の足でも体を支えきれなくなり、大きな音を立てて地面に腹を付けたかと思うとそのまま動かなくなった。

 アネットが再び近付き、突き刺さったままの長剣を無言で引き抜く。紫色の体液が噴出するもそれも直に止んだ。

「大した腕だな」

 出番のなかった剣を鞘に収めながらシビルは言った。

「それほどでもありませんわ」

 そう言って数回、剣を大きく振って体液を飛ばしてからアネットは長剣を鞘に収めた。その後で服の袖で顔をぬぐうが完全には体液は取れない。その細い身体のあちこちに紫色の染みが残る。だがその姿は決して醜くなかった。むしろ醜いのはそんなアネットの後ろで安堵した様子で座り込む兵士たちの方だった。

「二人とも、大丈夫か」

 そう言いながらグライドがシビルとアネットの所にやってきた。道案内の老人は倒れたシェロブを興味深げに眺めている。

案外この中で一番肝が座っているのはこの老人かも知れない。

「ええ大丈夫です。それよりも彼らが」

 アネットはあごで彼らを、座り込む兵士たちの方を示した。グライドは一度、眉間に深い皺を刻んでから兵士たち一人一人の様子を見に近付く。地に伏した三人はすでに事切れており、負傷した二人も傷は深くこれ以上の探索は無理そうであった。座り込む二人は傷こそ負わなかったものの、精神の消耗は明らかだった。

「お前たちは負傷者を連れて御老体と共に城に戻れ。あと少しというのであれば我々三人だけで先を急ぐ事にしよう」

「この者たちはどうしますか」

 もう動く事のない者たちの目を閉じさせていたアネットが兵士たちに指示を出すグライドに訪ねた。

「できれば埋葬するなり城まで連れて行くなりしたい所だが、帝国軍の動きが判らない以上そのような余裕は我らにない。彼らには悪いがこのまま捨て置く」

 まどろっこしい話だとシビルは思った。死んでいようが生きていようが従軍できない者は捨てていく、それが軍隊というものだ。何を当たり前の事をわざわざ口に出して確認しているのだ。まして死人の目を閉じる事に何の意味があるのか。死人は死人でしかない。それ以上の価値を持つ事も、それ以下に落としめられる事もない。

 自分以外の全てがそこに価値を見い出し、自分だけがそこに価値を見い出さない。

なぜだ、それは当然の事なのか。これが価値観の違いというやつなのか。

ならばその違いはどうすれば埋められる、否、埋める必要がその術があるのか。

 なぜかすぐ目の前にいるはずのアネットとの間の距離が、この時のシビルにはやけに遠く感じられた。


 今度こそ老人の言葉は本当だった。もうしばらく歩くこと数時間、それまで組み合せられた手の指のように複雑に絡まった木々だけしか見えなかった視界が一転する。

突如、渓流沿いに進んでいたシビルたちの目に大きくそして広い空間が飛び込んできた。

その輝きに一瞬、目を奪われた。

 風の凪いだ湖面には逆さに伸びる木々の姿が映り、その中央では人の手の届かないはずの大空がすぐそこに広がっていた。そこは青く、蒼く、葵。森とはただ木がずらずらと並んで生えているだけの場所としか思えない人間では生み出す事のできない雄大さがシビルたちをその胸に抱こうとしていた。

 シビルたちだけではなく彼さえも。

 シビルたちが出た湖畔は対岸との距離が一番短くなっている所だった。

向こう岸に泳いで渡る事は不可能そうではなかったし、対岸にいる人物の顔もはっきりと見てとる事ができた。

「ヴァイス、ヴァイスなの?!」

 最初に声を上げたのはアネットだった。

「アネット? 何故ここに」

 どこかあきらめたような、抑揚の少ない声。間違いなくそれはシビルのかつての補佐であり、もしかするとそれ以上のものでさえあったかも知れないヴァイスその人だった。

その黒髪が背後の木々と共に湖面にその姿を映す。胸当てに刻まれた赤色の鷲の模様と共に。

 それはブラットバーンズの証。

 シビルが動揺しなかったと言えば嘘になる。自分自身では自覚がなかったが、わずかに心臓の鼓動が早まり手の平に軽く汗がにじみ出る。だがそんなシビルよりも更に動揺を露にしている少女がすぐ隣に居た。

「どうして、あなたがこんなところにいるの? あなたが居なくなってから、五年間もずっと探し続けていたのに」

 右手を胸に当てながらアネットが叫んだ。

 やはりアネットはヴァイスを知っていた。むしろシビルはその方に心を動かされた。

知っていた事を知らなかったからか、それとも知らなかった事を知っていたからか。それは判らない。

「どうして、ここで何をしているの?」

 アネットの問いかけにヴァイスは何も答えない。ただわずかばかりに目を見開いたまま湖畔に立ち尽くしていた。そしてその視線はもちろんシビルにも向けられていた。

 シビルもまた無言だった。

 何か言う事があったはず、何かを言わなければならなかったはず。少なくともそれは裏切られた事に対する恨みつらみではない。だが言葉はでなかった。

 向かう合う若者たちの間を一陣の風が吹きぬけた。湖面に映るそれぞれの姿がさざ波と共に消えていく。その風になぜかシビルは西の塔からの眺めを思い出した。

ヴァイスがかつてブラットバーンズ隊長であった者へ投げかけたいくつかの言葉と共に。

 シビルはヴァイスへ何かを言おうとした。だがそれは叶わなかった。

「古代種の居場所を突きとめました、お急ぎ下さい」

 森の奥から薮をかき分けて姿を現した兵士がヴァイスにそう報告した。

そして少しの間を置いてからシビルたちの方を向いて驚きの声を上げる。

「お、お前は、シヴィレアー・シュタウフェイン!」

 その兵士は紛れもなく帝国の兵士だった。もはやシビルにとってはお決まりとも思える台詞を口にしながら剣を抜いた。よほどかつての仲間に嫌われているらしい。萌黄色の鞘に手を触れながらシビルは思った。

「構うな。それより村へ行く」

「ハッ!」

 ヴァイスはそう言ってシビルたちに背中を向けて歩き始めた。抜刀した兵士もちらちらとシビルたちの方を見ながらそれに従う。

「ヴァイス!」

 その背中に向けられたアネットの叫びはまるで悲鳴のようだった。

「もう止めろ、村へ帰るんだ」

 木々の間に帰えゆく直前、ヴァイスは振り返る事なくそれだけを口にした。それは淡々というより、絞り出すようなそんな声だった。

 再び風が吹く。しかしさざ波にかき消される姿はシビルたちのものだけだった。

「早く・・・・・・早く後を追いましょう。手遅れになる前に」

 アネットが振り向きざまにそう言った。整った眉を崩すその顔には悲壮感が漂っていた。

「そうだな」

 ただシビルには肯くことしかできなかった。

 湖畔沿いに少し歩けば向こう岸に渡れそうだというグライドの言葉に従い、シビルたちは駆け足でヴァイスたちの後を追う。古代種を帝国に渡さない為に、手遅れにならない為に、

何よりそれぞれの想いの為に。

 ほんの少し前まで、その古代種がこの湖畔に居た事などシビルたちは知る由はなかった。

その長い黒髪の少女の事など。

 その少女の名は、フェイラベル。


<5>

 胸騒ぎはした。それが予感というやつだったのかも知れない。

「フェイ、待ちなさい!」

 背後から聞こえる声に構わずフェイは走り続けた。扉を乱暴に開け、後ろを振り返る事なく、ただ走る為だけに走り続けた。

「フェイっ!」

 村長であるラッセンの声がまだ聞こえる。しかしフェイは両耳に手を当てて塞いで何も聞こえないようにする。聞きたくないのはラッセンの声ではなく長老の声、その言葉、その話、その内容。

 自分自身の秘密。

(どうして私が、私が!)

 長老の家を飛び出し、村の中を駆け抜ける。時折、フェイの姿を見つけた村人たちが心配そうな顔を向けるがその全てを視界の外へ、思考の外へ追いやる。誰に訴える訳でもない叫びをただ心の中にだけ響かせながら走る。

『お前はこの世でたった一人の純血の持ち主だ』

 しかし脳裏で鐘楼のように心の叫びを鳴り響かせているというのに、

それを遮り打ち破ってあの声がよみがえる。あの言葉が思い出される。

『いつかは話そうと思っていたのだが、お前のことを考えると決心がつかなんだ。よいか、これから話すことは、お前の行き方を左右してしまうかも知れん。だが、しっかりと耳を傾け、自分自身でそれを見定めるのだ。お前は、お前にとって重すぎるほどの運命を背負わされておる。そして、恐らく生きているうちはその運命から逃れることはかなわぬ』

 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。思い出したくない、聞きたくない、聞かなかった事にしてしまいたい。

『お前は、元来この村の人間ではない。そして、今の両親であるクラートとドーチェも、

お前の生みの親ではない』

 十七の誕生日。それは大人として認められる祝いの日。その日に長老の家に呼ばれたフェイは、そこで長老と村長のクラートから今まで聞いた事がなかった事を、自分には自分だけには秘密にされていてた事実を聞かされる。

『落ち着きない、フェイ。確かに、お前はあの夫婦の子供ではない。だが、あの二人はお前を本当の子供として育ててきた。村の皆も同じだ。お前はもはやあの二人の娘で村の子供。それはお前にも判っているだろう?』

『だったら、どうして、今さら』

 そうだ、どうして今さらそんな事実を聞かされなければならないのか。

どうして真実を知らなければならないのか。何も知らなくても何も判らなくても生きて行けるはずなのに。

 だがフェイの戸惑いと反発に関係なく長老は淡々と言葉を続ける。その口の動きは延々と糸を紡ぎ続ける糸車のように思えた。

『それでも、それでもお前には話しておかねばならない。お前は、生まれ持って我々にはない力を授かっており、おそらくはその力がお前を縛り、また導いていくのだろう。十五年前の冬の日。村はずれの泉で女性が倒れているのを、村の男が見つけた』

『泉、あの泉?』

 泉と言えば思い当たるのは一つしかない。今朝もその静かな湖面に心を委ねてきたあの泉のことしか。あの時は今日もいつも通りに時が過ぎて行くものとばかり思っていたのに。これまでのように、これからも、ずっとずっとこの身が老いて朽ち果てるその時まで。

『そうだ。お前は、体のどこかであの場所が大切な場所であることを覚えているのかも知れんな。その女性は、名も無き村から逃げてきたと語った。その地は、この大地の中でもっとも古い血の流れを引き続けている場所だったそうだ。だが、その村は滅んだのだ。滅ぼされたのだ。彼らが血は神より与えられたといわれる光を宿しておる。殊に純血と呼ばれる者になるとその光たるや神の如しとも言われる』

『純血の、光』

『この世にたったひとりの重い宿命を背負わされた人間だ。純血の者は一度に二人存在することはない。たったひとりでこの世に生まれ、死ぬと新たな純血がこの世にたったひとりで現れる。そのただ一人持つという光を求めて、ひとつの国家がその村を襲ったのだ』

 一瞬、フェイは自分の視界が黒と赤で真っ二つに引き裂かれた気がした。それは血と煙と死の世界。果たしてそれは長老の言葉が見せた幻か、それとも失われたはずの記憶か。

 判らない、判りたくない。

『古代種の純血の捜索、その名目の下、村は打ち壊され、焼き払われた。その時、純血を持つものはまだ幼子。邪な心を持つものの手に渡ることはもちろん危険であったが、なにより幼い我が子を守ろうとする母親の手によって、小さな命はその手を逃れ、ここへたどり着いた』

『その女性はここにたどり着いたときに、既にかなり消耗しておった。たった一人で、幼子を抱えてここまで逃げ切れただけでも奇跡だったのだ。村の墓所の一番奥で眠っている。後で行ってお前の本当のお母さんに姿を見せてやりなさい』

『そんな、そんなこと!』

「そんなことって!」

 心の叫びがついに声となって喉から放たれた時、フェイはその場所まで辿りついていた。

 それは思い入れの地、思い出の地、そして始まりの地、村外れの泉へ。

「どうして、どうして私が」

 深く青く水をたたえる泉に比べれば、人の流す涙の量などたかが知れている。しかしフェイには涙を流す事しかできなかった。両手と膝を地面につけ、ただむせび泣くき、そして訴える。なぜ、どうして、なぜ、どうして、なぜ、どうして、なぜ、どうしてと。誰も答えてくれずそして答えられない問いをただただ訴え続けた。

 フェイの肩からその長い黒髪がこぼれ落ちた。


「そっとしておいてやりなさい、ラッセン。あの子は、ワシらよりずっと、辛いはずだ」

 飛び出して行ったフェイの後を追いかけようとしたラッセンを、長老はそう言って諭した。

「長老、本当にこのことを伝えても」

 ラッセンはフェイが開け放ったままの扉を閉めると、肩を落としながら長老の前まで戻った。古いオークの木で作られた椅子に越しかけたまま、長老は目を閉じて大きく鼻から息を吐いた。まるでその姿は重い荷物を背中から下ろした後の使役人のようでもあった。

 そんな長老をラッセンは黙ったまま見つめた。隠し事をするという事は、即ち相手を騙すという事だ。例えどんな理由をつけたとしても、それは愛するが故のものだとしても、結果的に人を裏切る事に変わりはない。隠し続けた時間が長ければ長いほどその罪は深くなっていく。

 今、二人の間に横たわるもの。それは言わなかった事と、言ってしまった事への罪。

だが彼らにしょく罪の機会は永遠に訪れなかった。

 先に気が付いたのはラッセンだった。もう耳が遠くなって久しい長老には何も聞こえず、

ただ走り去って行った愛すべきそして守るべき少女の事を思い沈黙している。

外が何やら騒がしくなっている事に気が付いたラッセンは窓へと歩みよりそこから外を見た。まさか興奮したフェイが何かをしたのだろうか。そんな心配をしながら目を向けたラッセンは、事態が自分たちの考えるよりも恐るべき早さで進んでいる事を知った。

「これは、大変です!」

 ラッセンが見たものは信じられない光景だった。だがありえない光景ではなかった。

つまりそれは信じられないのではなく信じたくないという事。だが心は残酷なまで冷静に事実を理解してしまった。

 長老に駆け寄るラッセンの背後で、窓越しにブラットバーンズの軍旗が翻った。

 真紅の鷲はその鋭い爪を緑の奥深くに食い込ませる。


 風が出てきた。それは天の心変わりのせいではない。

燃え盛る家々が風を生み出し、嗅ぎ慣れた香りと共に人の肌を勝手に撫でて行くからだ。

いつもの眺め、いつもの香り、いつもの世界、自分たちの世界。それは血と煙とそして死と。

「ヴァイス隊長よ、俺はあんたにどうしても聞いておきたい事があるんだがな」

 村の広場で二本の旗がはためく。一本がブラットバーンズの軍旗であり、もう一本はガルド帝国の国旗。その旗の下でボーナムがヴァイスにそう問いかけた。

「今更何を聞く」

 配下の兵士たちが逃げ惑う村人を容赦なく切り捨てていく様を見ながら、ヴァイスはいつもの抑揚のない声でそう返した。目の前の光景にも、投げかけられる言葉にも、何にも興味がないといった様子だった。

「あんた、本当に殺せるのかよ」

「誰をだ」

 質問の意味は判っていた。そこに当てはめるべき人物の名も判っていた。だがヴァイスはあえて問い返した。

「シヴィレアー・シュタウフェイン、を」

 また一軒、家が炎に包まれた。調べ終わった家には火を放てと命じてある。探すものはただ一つ、それ以外には興味も意味も何も無い。全てを壊し、殺し、消し去る。それがブラットバーンズ、真紅の鷲を背負う者ども。

 ボーナムが愛用の金槌の柄で自分の肩を軽く叩いた。

 純血の捜索は思ったより早く進んでいた。それはヴァイスが全ての配下に略奪も暴行も禁止すると厳命していたからだ。ヴァイスが許可した事はただ一つ、虐殺のみ。今、この場では極めて効率的に死者を生産する作業が行われている。淡々と、早々と、一つまた一つと命が消えて行く。一滴また一滴と大地が血を吸い込んで行く。

 ヴァイスが左右の腰に差してあった短剣に手を伸ばしそして抜いた。

仁王立ちのまま、膝の前で両手に持った剣を十字に交差させる。だがボーナムは動かない。

ただ隣のヴァイスを頭の上から見下ろしている。侮るようなふざけた表情の奥で瞳だけは鋭く輝いていた。

「尋ねる相手が違う」

 ヴァイスがボーナムを見上げた。

「それは自分自身への問いかけだろう」

 そう言って、再び視線を前へと戻す。ブラットバーンズが村へ侵攻してからしばらく時間が経った。村人の中にはなけなしの武器を手に反撃してくる者も出始めてきたが、所詮百戦練磨のブラットバーンズの敵ではない。ただその一生の長さを僅ばかり伸ばすだけに過ぎなかった。

「かもな」

 大男の口元に笑みが浮んだ。


「いかん、狙いはフェイか!」

 窓から見える眺めに長老は現実を、最も恐れていた事を知った。帝国が、いやあの男が純血を欲している事は十数年前から知っていた。その為にあの男は帝国を作ったようなものだからだ。何度かその魔手が足元まで伸びてきた事はある。しかしこのランバートの深き緑がそれを防いでくれていた。

 だがもはやその守りも破られた。そしてそれは自分たちの運命が決した事を意味した。

「長老」

 ラッセンが神妙な面持ちで長老を見た。この男もまた自らの定めを悟ったようだった。

「うむ。恐らくはフェイはあそこに行ったに違いない。ならばまだ時間はある」

 長老はそう行ってゆっくりと寝台に近づき、そしてひざまづくとその下から薄汚れた布に包まれたものを取り出した。骨と革だけになっているものの力強さの失われていない腕はそれを持ち上げるとラッセンへと手渡した。

 ラッセンは大きく深呼吸をしてから手渡されたものの包みを解いた。それは自分たちには必要がなく、彼らには必要があるもの。何も作り出す事はなく、何もかもを消し去るもの。

 剣は鞘から抜かれた。

「長老、御無事ですか!」

 野太い声と共に若者が扉を乱暴に開けて入ってきた。がっちりとした体格のこの若者の手にもまた鈍い輝きを放つ剣が握られていた。まさかそんなものを手にする日が来ようとは思っていなかったであろうに。

「おおバートか。外はどうなっておる」

「間違いありません、奴らフェイを探しています。村の北側からしらみつぶしに調べて回っています。今にもどんどん火が放たれていて」

 バートの息は荒く、そしてその顔は焦りに満ちている。自分のように老い先短い者ならばともかく、彼のようにまだ若い者に同じ定めを負わせるのは忍びなかった。だがそんな感傷に浸る事を現実は許してくれない。

「今、ロゼたちが時間を稼いでいます。長老様はフェイを連れて村の外へ」

 そう言ったバートの目は鋭く、そして澄んでいた。過酷な運命に立ち向かう者がそうであるように。

彼もまた覚悟を決めたのだ。それを可哀想と思うのはその覚悟をけなし汚す事になる。

「頼むぞ。何としても踏ん張るのだ」

 長老は一度目を閉じてから、かっと目を見開いて言った。これから目にする事全てを決して忘れはしまい。例えこの身が滅びようとも、魂にその全てを彼らの輝きを刻み込もう。

「任せて下さい」

 バートはそんな長老を安心させようとするかのように笑顔でそう答えた。だが長老にはその笑顔が余りにも悲しかった。

「よし、ラッセン。お前はわしと一緒に来てくれ!」

 長老は慣れぬ手付きで剣を持つラッセンと共に家を出た。その後でバートも飛び出しそのまま走り去っていった。互いにもう顔は見ない。もう見る事はないであろうから、だから見ない。

 外へ出た長老の目に、陽炎に包まれる村の姿が映った。


「長老様!」

 ラッセンと共に建物の影を選んで進む長老に一組の夫婦が声を掛けてきた。

この夫婦、クラートとドーチェは他の村人以上に己の運命を自覚せねばならない二人だった。

「二人とも、無事じゃったか」

 まだ中年と呼ぶには少し早いこの夫婦の姿を見て長老は安堵したが、その後ですぐに己の愚かさを悔いた。無事である者よりも、無事でない者の方が遥かに多いであろうと言うのに。

 すぐ近くで悲鳴と、怒声が同時に聞こえた。だがその一つ一つに心を傾けている暇はない。

今、長老に求められているのは、この村を襲う者たちの冷酷さを上回る冷静さだった。

「あの子は、フェイは?」

 ドーチェが細身の槍に持たれかかるようにしながら長老に尋ねた。その表情に現れているのは不安、それは心配する心から来るもの、そして全ての源は愛情。子を想う母の気持ち。二人はフェイの両親だった。

血の繋がりも何も、フェイが受け継がされたものも何も、家族であるという事以外は関係がなかった。

 今日この日までは。

「恐らく墓所か泉。いや、あの子の事だ、恐らく泉だろう」

 長老の言葉にクラートとドーチェは互いの顔を見合わせた。

「では、あの子には全てをお話になったのですね」

 ドーチェの顔が曇る。

「だが、あの子にはまだ時間が必要だ。よもやこんなに早く見つかろうとは。

とにかく、村の外へ連れ出さないことには始まらん」

 始まらないという事と、終るという事の差はどこにあるのだろうか。先程から吸い込む空気が暑い。それは家を焼く炎の暑さか、それとも人の持つ感情の熱さなのか。村は完全に戦場と化していた。建物の影から武装した兵士に立ち向かう村人たちの姿を覗き見る事ができる。そしてその末路も。

 村の広場に立てられた旗の中で羽ばたく鷲が、その赤さを増したような気がした。

「判りました。私たちもここで奴らを食い止めます」

 手斧を両手で握り締め直したクラートが言った。

「良いのか?」

 答えは判っていた。それは愚問だった。だが長老は尋ねずにはいられなかった。

そうしなければ自分で自分を納得させる事ができないからだ。彼らに過酷な運命を受け入れさせた自分の選択、その意味と価値を。

「あの子が背負っているものの大きさを知った時から、既に覚悟は決まっています」

 ドーチェが肯いた。母とは何もお腹を痛めた事に対する称号ではない。一つの生命を一人の人生を、未来へ果てしなく伸びる大樹の枝を広がさせ花を咲かせる偉大なる存在。

全ての根元にして終焉、それが母親だ。

「すまぬ」

 そんな母の決意に、長老はただ頭を下げる事しかできなかった。

「長老様が謝る事ではありませんよ。どうかあの子を、私たちの娘をよろしくお願いします」

 そう言ったクラートの隣で、ドーチェは軽く首を傾げて微笑んだ。彼女は自分たちの運命を理解し、確定的である未来を知っている。にも関わらず笑みを浮べた。自分たちにとっての全てが終ろうとするその間際であるにも関わらず、憎しみも悲しみも何もなくただ微笑んだ。

「ウム。ラッセン、行くぞ」

 その笑みを長老は直視する事ができなかった。世界の為、未来の為と理由を付けるのはたやすい。その為に失われるいくつかのものを見なければいいだけの事。しかし長老は見てしまった。散り行く花のその花弁の一つ一つを。そして少女は足元に敷き詰められたそれらの上を歩かなければならない。踏みつけ、踏みしめ、踏み越えなければならない。自分自身の心も願いも全て関係なく。

 何故ならそれは運命だから。

 今日、この日、この陽炎の中で、この村の人間は全員死ぬ。ただ一人、フェイラベルを除いて。

 何故ならそれが運命だから。

 さあ殺されよう。全てはこの日の為に、これらからの日の為に。

 長老たちが立ち去った直後、微笑む母の首元から真紅の鷲が飛び立った。

 

「誰?」

 ふと、誰かに呼ばれたような気がした。

 泉のほとりでしゃがみ込んでいたフェイだったが、奇妙な感覚を胸に抱きながら立ち上がった。空の色は鉛色、今にも雨が降ってきそうなそんな気配。その下では大小様々な木々がフェイの視界を遮り、村の方角を見ても家の屋根さえも見えない。

 だが何かが違う。限りなく確信にちかい勘がフェイにそう告げる。いつもと同じものを見ているはずなのに、実はいつもと違うものを見ている。

 例えばそれは、血相を変えて走って来る長老とラッセンの姿。

「フェイ!」

「よかった、無事だったか」

 戸惑うフェイの前まで進むと長老は真っ赤な顔でフェイを見上げ、犬のように荒い呼吸を繰り返すラッセンは両手を膝の上につけて腰を屈めている。この二人がこんなに慌てている様子をフェイは知らない。何よりラッセンが剣を手にしている姿など、二人と共に流れてきた異様な空気の流れなど、フェイは知らない知りたくもなかった。

「よかった。今ならまだ逃げ切れる」

 そう言って長老の手がフェイの腕を掴んだ。皺くちゃなはずのその手はとても力強くそして熱かった。

「長老様、一体何なの、何があったの」

 フェイにはまったく訳が判らなかった。自分の出生に関する話を聞かされただけでも困惑しているというのに、自分を取り巻く刻の流れは更なる混乱をお望みらしい。二人の様子から何か大変な事が起きているという事は判る。それが決して良い事ではないという事も。だがそれ以上の想像力はフェイには働かなかった。

「いたぞ、逃がすな!」

 所々に赤い斑点のついた鎧兜に身を包んだ兵士が、森の奥からそう叫んで姿を現したその時まで。その姿を見た時、その声を聞いた時、そして斑点が返り血であると気が付いた時、自分の置かれた状況を取り巻く環境をフェイは急速に理解していった。

「見つかったか」

 長老が忌々しげな声を上げた。

「ここは俺に任せて行って下さい、長老様!」

 剣を鞘から抜き放ったラッセンが叫びながら迫る兵士に立ち向かった。やがて交錯する両者の間で金属音が打ち鳴らされる。その甲高い音は悲しいまでに澄んでいた。

「ラッセンさん!」

「なに、こんなときの為にわざわざついて来たんだ。何もしないで俺だけ逃げたんじゃ他のみんなに悪い」

 剣を打ち合うラッセンがフェイに背中を見せたままそう言った。その声は荒々しく、そして苦しい。慣れない剣を持って兵士に立ち向かう事がどれほどの苦難であるか見ているだけで判る。見かねたフェイがラッセンの傍に行こうとするが、自分の腕を掴んだままの長老の手がそれを許さない。

「ならぬ、フェイ。逃げるのだ!」

「なぜ、どうしてこんな事」

 やがてその手がフェイを引き離し始めた。自分の為に困難と恐怖に立ち向かうラッセンの背中から。離れたくはなかった。だが離れなければならない事を判っていた。今、自分に向かって無数の手が伸びてきている。そしてそれは自分以外の周りの全てを消し去ろうとしている。追い剥ぎのように全てを奪い去ろうとしている。

 フェイはその手に対する術を知らなかった。ただ長老の手に引かれるまま逃げる事しかできなかった。全ての者をその背中の彼方へ置き去りにして。

 湖畔沿いを走っていた二人だが、その先に兵士の姿を見つけて森へと足を向ける。村近くのこの辺りは村人が手を入れているので下草も少なく走り易い。だがそれは兵士たちにとっても同じ事だった。何度か木の幹の彼方に兵士の姿を見つけて行く手を変えている内に、二人は再び村へと戻ってきてしまった。

 だがそこはもはやフェイの知る村ではなかった。激しく舞い踊る炎は家々を包み込み、立ち上がる黒煙は鉛色の空よりも濃い。いつも通る道も、椅子代わりにしていた石も、雨宿りをした木も、毎日水を組み上げた井戸も、フェイの知るもの全てがフェイの知らない姿でそこにある。

 そしてそれは人も例外ではない。見知った顔が、見知らぬ顔でそこにある。横たわるその体から生えるのは矢であり剣であり槍である。動かぬその体から流れ出るのは涙であり汚物であり赤い血である。

「どうして、どうしてこんな!」

 頭を抱え悲鳴のような声を上げながらフェイがその場に座り込んだ。

「フェイ、落ち着くのだ!」

「どうしてこんな事に、どうして皆がこんな目に、どうして私だけが逃げるの、どうして!」

 手を振り払われた長老がフェイをなだめようとするが、激しく震えるその心はありきたりな言葉では鎮まらない。ただ座り込んで何度も何度も頭を振る。長老の手だけでなく目の前の現実さえも遠くへ振り払おうとするかのように。

「よいか。奴らはお前に流れる血を狙っておる。その力を狙っておる」

「嘘! 私にそんな力なんてないのに、みんなだって助けられないのに!」

 長老は自分に純血の光が宿っていると言った。その力を求めて争いが起きているとも言った。それなのに自分は何も出来ない。自分の知っている人間でさえ助ける事ができない。燃え盛る炎を消す事もできなければ、流れ出る血を止める事もできない。そんな力にそんな自分にどんな価値があるというのか。

「判らない、判らないわ! 私のせいでこんな事になってしまったなんて!」

「フェイ、とにかくワシについて来るんだ」

 ヒステリックに叫ぶフェイの手を取り、長老は何とか立ち上がらせようとする。少しして長老のその手は力任せに無理矢理フェイの腰を少し上げさせたがそれも直に止まった。なぜならフェイは見つけてしまったから、そして知ってしまったから。

 視界を遮る黒煙の彼方で、地面に広がる死人の山の中で、その二人の姿を見た。誰よりも自分を愛し、慈しみ、育ててくれたその二人の姿を。

 その二人の血の色を。

「いや、いやあああああっ!」

 拒みたい。この光景を、この現実を、この真実を。できる事ならばなかった事にしてしまいたい。でもそれは叶わぬ願い。だからフェイは悲鳴を上げる事しかできなかった。叫んで、叫んで、頭の中をからっぽにしてしまいたかった。

 本当の親なんて、生みの親なんて知らない。自分にとってはあの二人こそが親、愛する家族。しかしその家族が大切な絆が今、絶ち切られ失われた。

 死んだ。父も母も、クラートもドーチェも死んだ。目の前にあるのはその二人の死体だ、遺体だ、流れ出た血は大地にしみ込みやがてこの世界の一部となるであろう。でも自分にとって大切なのは理屈ではなく感覚、触れられない真実より触れられる虚構、自分と自分の周りが全て。世界なんて知らない。

 顔を歪めるフェイは長老が手を離した事に気が付かなかった。そして自分たちの前に現れた者たちの存在でさえ意識には映らなかった。

「ヘッヘッヘッ、とうとう見つけたぜ。さすがヴァイス隊長、読みはバッチリだったってワケか」

 その中の一人、剃り上げた頭の大男がそう言っていやらしい笑みを浮べた。

「クッ」

 呆然とするフェイをかばうように長老は男たちの前に立ちはだかる。

「これで晴れて小隊長に昇格だぜ!」

「さあ、おとなしく娘を渡してもらいましょうか」

 だが男たちにとってそれは何の脅威にもなり得なかった。赤毛の男が嬉しそうに鎖に繋がれた鉄玉を振り回し、長髪の優男は舌なめずりしながら短剣を鞘から抜いた。

「ま、娘を渡そうが渡さまいが、あんたの命はねぇんだがな」

 大男がそう言って手にした金槌を大きく振り上げた。だがフェイは動かない。その目は何も映さず、その耳は何も捉えず、その口は何も発しない。ただそこに居るだけ。

「早く逃げるのだ、少しでも遠くへ。フェイッ!」

 長老は懐から短剣を取り出すと、両手でそれを構えて正面の大男へと突き出す。それはささやかな抵抗、無駄な行動、何も止められず何も変えられない。だが意味はある。立ち向かう事こそ抗う事こそが大切だからだ。なぜならばそれが証。彼女を全ての者が愛していたという証。

「この馬鹿が」

 にぶい音がした。大男の腕力は、金槌の重さは、小柄な老人一人を殴り飛ばすには十分過ぎた。横殴りに振り下ろされた金槌は、長老の骨を完全に砕きそしてその体を大地に叩き付けた。ひしゃげた体が土にぶつかり、吐き出された血がそのあご髭を真っ赤に染める。

 まるでそれは彼岸花のようだった。


 その時、フェイは何かを見た。

 多分それは、白い羽だったと思う。


 足元に赤いものが広がっていく。痩せたその体から留まる事なく流れ出ていく。

大地の上で彼岸花の赤い花弁が大きく開く。

 美しい。

 フェイはその光景を見てそう思った。そうとだけ思った。

それ以外の感情は何もない。何故かそれまで自分の心を覆い尽くそうとしていた戸惑いや

悲しみといったものはどこかへ去っていっていた。

 目の前で大男が何か言っている。赤毛の男が何かを叫んでいる。優男が短剣を持ったまま背中を向けた。

 だけど関係ない。

 足元で長老が倒れている。それ以外の者もそれぞれ地に伏している。赤く染まった大地の上で、炎の群が踊り狂い、天は黒煙で妨げられて何も見えない。

 だけど関係ない。

 フェイはその時理解した。自分は自分であって、彼らではない。自分とその周囲の者たちとの間には確かな隙間が存在する。決して相容る事のできない違いがそこにある。彼ではない、彼らではない、では自分は何者なのか。

 判らない。何も判らない。

 視界に新たな人影が入り込む。がっちりとした体格の中年男性と、金髪を翻す少女。

赤毛の男と、優男がそれぞれの武器を手にその二人へと向かう。剣と鎖鉄球が、剣と短剣が、それぞれ交錯する。

 何も関係ない。

 彼らは何をそんなに争っているのだろう。何の為に血を流し火を放つのだろう。判る。

今この場に渦巻く感情がよく判る。野心、憎しみ、欲望、焦燥、様々な感情が入り混じりぶつかり合う。

人と人とがぶつかり合う。

 だけど自分だけは違う。

 今まで、そんな感情が自分にもあった。泣き、笑い、悲しみ、喜んだ。だけど大雨が地表の土を洗い流して岩をむき出しにするように、自分の感情も洗い流されてどこかに消え失せた。そしてその後に残ったのは、この無気質な感覚、そして違和感。何かが違う、同じではない、自分だけが他の全てから切り離されたような感覚。それは真水の中に垂らされた一滴の油のように。

 大男が動いた。また争いが起きるらしい、また血が流されるらしい、また命が消え失せるらしい。

 だけど自分には関係ない。

 金槌が振り下ろされる、それを避ける一人の男が見えた。

体の動きと共に揺れるその髪と同じ銀色をした刃が宙で舞う。炎の輝きを受けてその刃が瞬いた。

 赤、あるいは朱。

 視界が朱で染まる。

 幼子が絵の具をただ塗りたくったように、無意味で無意識な紋様がフェイのローブに描かれる。鮮血が前髪にかかり、赤い滴が額から鼻の頭へと下り落ち、やがてそれは唇の上へと達した。

 軽く舌を伸ばす。

 硬くやや苦みのある味がした。それは血の味、赤い水の味。

人が人としてこの大地に上に立ち始めて以来、幾度となく幾重にも大地に流れ出でた生命の証。そして生命の力。

「それでこそ、シビル隊長・・・・・・」

 大男がそう言って木こりの斧を食い込まされた巨木のように大きな音を立てて倒れた。

だがそんなものはどうでもいい。今、重要なのはそれを切り倒した者、その存在。

 目の色は、引き剥がした杉の木の皮のような濃い茶色。

 血塗られた剣を手に立つその茶色の瞳と目があった。何の感情を抱く事もなくこの場にいる、自分以外のただ一つの存在と出会った。

 彼の頬にも血が飛んでいる。その味は多分、自分の舌に残る味と同じはずだった。


 その時、シビルは何かを見た。

 多分それは、白い羽だったと思う。


 ボーナムが倒れる時、何かを言っていたが聞こえなかった。その巨体の向こうに見えた少女の姿に目を奪われていたからだ。全身を血で染め上げながら、その少女は血生臭いこの空気の中で平然と立っていた。目を奪われたのはその美しいと形容できる容姿にではなく、その畏怖すべきと表現できる気配のせいだった。まるで死人のような雰囲気、しかし確かにこの少女は生きている。それは花も木の葉も全て散り落ちながら、それでもなお大地に根差し続ける老木のように。

 気が付けば辺りに居るのはこの少女以外、自分たち三人だけになっていた。ボーナムもアレックスもコージーも、すでに人としてのその役目を終えた。

その野心も憎しみも恨みも何もかも、周りの炎と共に果てしなき空へと舞い上がり散り果てる。

 それは不思議な感覚だった。見知った者が屍となって足元に転がる様を眺めるのは。そしてそれ以上に目の前でたたずむ少女の姿を見るのは。長い黒髪が風に揺れている。それは柳の木の枝のように、あるいは奈落の底から手招きする亡者の腕のように。

 その目の色は紫、三日月に照らされた夜の帷のような紫色。

「古代種」

 背後でグライドがぽつりとつぶやいた。

それではこの少女が捜し求めていた古代種、赤き水を未だその内に秘める唯一の存在。だが創造主の力を受け継いだ者にしては、その光を一身に受ける者にしては、この少女は余りに暗くそして醜い。容姿が、という訳ではなくその影が、取り巻く空気が、その雰囲気が。

しかしそれ以上、この少女へ意識を向け続ける訳にはいかなかった。

 気配がした。強い意志が自分に向けて放たれている。シビルは萌黄色の剣を構え直しながら振り向いた。

「シビル、魔剣を捨てたか」

 その先で黒い瞳が自分を見ていた。


<6>

「ヴァイス!」

 最初にその名を叫んだのは、シビルではなくアネットだった。シビルはと言えばただ眉間に皺を寄せる事しかできなかった。先程もヴァイスには会った、しかしあの時は二人の間に湖があった。だが今は何も無い。一足跳びとはいかなくとも、数歩も足を進めれば互いの手が届く距離にいる。むろん互いの手に握られた剣も例外でなく。

 ヴァイスは下げた両手に短剣を持ち、それを膝の前で交差させている。

油断しているのか、本気ではないのか、そうではない。それはヴァイスのいつもの構え。

その交差された刃が数多くの屍の山を築いてきた。そしてその中にシビルも入れようというのか。

「帝国の為に命をかけて戦い、その挙げ句捨てられお前が、レジスタンスと共に帝国に復讐か?」

 いつもの構え、そしていつもの声。あきらめたような声、気怠げな瞳、やや猫背きみに前傾した背中。かつて自分の隣にいた者が今、自分の目の前にいる自分と対峙している。

「判らない」

 確かに自分の今している事は帝国への反抗だ。だが、それを復讐かと問われればその答えをシビルは持たない。何より今からどうするのかさえ、

手にした剣をヴァイスと交えるのかどうかさえ。

「俺がいったい何をすべきなのか、俺がしていることにどんな意味があるのか」

 シビルはそう言いながら萌黄色の剣を中段に構えたまま腰を落とした。自分が何故ここに居るのか判らない、ヴァイスと戦う事に何の意味があるのか判らない、自分の振るう剣がこの世界に何をもたらすのか判らない。

「だが、お前にはいろいろと借りがある」

 ネルヴェの森ではヴァイスに裏切られ、かつての部下によって命を狙われるはめになった。だがここで言う借りとはそんな事ではない、裏切りに対する報復などではない。

それは感覚的なもの。シビルとヴァイス、二人の間にだけ存在し二人の間でだけ理解されるもの。

「お前が欲しかったものは、取り戻せたか」

 再びヴァイスが問う。そして再びシビルは沈黙する。

 周囲が騒がしくなってきた。どうやら遅れて到着した他の探索隊が、ブラットバーンズと剣を交え始めたらしい。もはや住む者の居なくなったこの村の中で、炎と兵士だけが踊り散りゆく。彼らの魂はこの黒煙を押し退けて天上まで昇る事ができるのであろうか。あるいは血塗られた魂はその流し流された血と共に大地の底へと沈みゆくしかないのか。

 ならば自分の魂はどこへ行くのか。それ以前にどこからもたらされたのか。恐らく、一度剣を手にした人間は、その剣先の行く末でしかそれを知り得ないのだろう。

 シビルは中段に構えたその体勢のまま、靴底を擦らせて一歩足を踏み込んだ。それは決して握手をする為などではなく、己の間合いを詰める為に。更なる血を大地へ流させる為に。

「いいだろう。俺はブラッドバーンズ隊長として、お前と戦わねばならん」

 そう言ってヴァイスは十字に組まれた短剣をゆっくりと持ち上げた。そして胸の前で両肘を交差させVの字を形作る。それは広げられた白鳥の翼のように優雅に、そして広げられた鷲の翼のように獰猛に。そしてその翼がはためいたその時、

「かかってこい、シヴィレアー・シュタウフェイン!」

 ヴァイスが叫びながら駆け出した。シビルは更に腰を落として萌黄色の剣で迎え打つ。

もう躊躇も、戸惑いも、迷いも、思案も、何もない。剣を持つ者たちが互いの剣先を向け合った時、そこはあらゆるものから解放される。貴賎から、性別から、年齢から、経験から、出生から、宗教から、人種から、そこにあるものは究極の平等。そしてその平等がもたらすのは勝者への生と、敗者への死。ただそれだけ。

 剣撃の音が鳴り響く。

 シビルの剣が渓流を下り落ちる濁流だとすれば、ヴァイスの剣は渓流の脇に生える水草。濁流の力強さを水草は軽やかにそして柔らかく受け流し、そよぐ水草の揺らめきは濁流に弾き返される。シビルの剣が打ち破るのが先か、ヴァイスの剣が包み込むのが先か。

 複雑な動きを見せるヴァイスの双剣だけを目で追いながらも、その視界の端には様々なものが映り込む。険しい表情のグライド、目を見開いたままのアネット、そして紫の瞳の少女。

 自分は何をしているのだろう。

 今までも剣を振るい続けてきた、そして今も剣を振るい続けている。している事に大差はない、ただ屍の山を作り続ける事に違いはない。ならば魔剣を捨てた事に意味はあったのか、何の為に魔剣を捨てたのか、何が欲しかったというのか。

 突き出されたヴァイスの剣先が眼前に迫る。それを頬の皮を切り裂かせながらぎりぎりの所でかわし、足元から切り上げる剣で突き出されたヴァイスの腕を狙う。しかしそれも服の袖をかすめただけで避けられる。

 巨大な岩を細い錐で削り取ろうとするような勝負が続く。

 自分はヴァイスを殺そうとしているのか。

 剣と剣を交えながら命のやりとりをしているはずなのに、そんなおかしな疑問がシビルの脳裏に浮んだ。そもそも自分が今まで誰かに対して明確な殺意を抱いた事があっただろうか。確かに数えきれない程の人間を今までその手で殺めてきた。確かな人を殺す為の技術が自分には身についている。しかし殺したいと思って殺した事は一度もない。ただ剣を振るっていたら、相手が死んでいただけの事。先程のボーナムに対してそうであったように。

 だが今はどうだ。かつての部下を、仲間を、見知らぬ相手を切り続けてきたはずなのに、ヴァイスを相手にしている今はどうだ。殺意はない、しかし何も感じていない訳ではない。何かを感じているそして何かを考えている。知性とは違う何かが頭の中でうごめいている。

 シビルの剣がヴァイスの首筋すれすれをかすめた時、悲鳴が上がった。もちろんヴァイスではない、声の主は姿を見て確かめなくても判る。それはアネットの声、アネットの悲鳴、アネットの叫びだった。

 ヴァイスはアネットと浅からぬ因縁があるはず、にも関わらずほとんど彼女の事を意識していない。湖畔での様子を見る限りアネットがヴァイスの事を思い続けているように、ヴァイスもまたアネットの事を忘れていた訳でも忘れたい訳でもなさそうだった。だがこの勝負の果てに倒れるような事になればどうするつもりなのか。死してなお言葉を伝える術など人間は持っていないというのに。

 剣を振り、食い止め、受け流す。

 それは頭蓋骨をお手玉にしてもてあそぶ死神の戯れ。相手の生命を絶ち終らせる為に、自分の全てを掛けて立ち向かう。生と死の、人と人でないものの、その狭間の上で二人は踊る。

 自分は殺されるかも知れない。そして自分は殺してしまうかも知れない。しかしそのどちらも望んではいない。それでは何か、それ以外に何があるというのか。

 剣を振り、食い止め、受け流す。

 自分はガルドに捨てられ、そして自分は魔剣を捨てた。それは必要がなくなったから。いや、違う。あの時も魔剣はその力は必要だった。だがそれに頼り続ける訳にはいかないと、自分が自分として生きる為にあえて手放す必要があった。必要なものでも、大切なものでも、時として距離をおかねばならない時もある。

 ではヴァイスは、だからこそアネットから離れているのか。大切だからこそ、必要とするからこそ。

 剣を振り、食い止め、受け流す。

 シビルがぐらついた剣を構え直した時、ヴァイスが崩れた体勢を整えたその時、互いの目が合った。剣を交え始めてから初めて相手を見た。時間にすればまさに一瞬、だが二人にとってそれは永遠。二人と二人の間だけが周囲の時の流れから外れ、瞬く光の中で時が刻み込まれる。心に、体に、目に、そして世界に、その全てに全てが。

 剣を振り、食い止め、受け流し、そして。

 果て無しの彼方まで響き渡るような金属音と共に、再び二人の時間は動き始めた。宙に舞い上がった短剣は風車のように回り、そして赤い大地へと突き刺さった。だがそこから新たな血が流れる事はない、もう二度と。

 決着は着いた。ヴァイスが残った左手の短剣を構え直す暇を与えず、シビルは剣先をその眼前へと突き出した。だがそれだけ。その剣先でヴァイスを喉を切り裂きはしない、血を流させはしない。

 何故か。

 判った。自分がヴァイスに剣を向けた理由。

「受け取れ。お前から借りたお守りだ」

 シビルはそう言って左手を剣から離すと、懐からそれを取り出してヴァイスに差し出した。まるで剣と笛、そのどちらかを選べと言うかのように。

「どういうつもりだ」

 ヴァイスが突き出される剣の彼方にシビルの顔を見て問う。

「そのお守りが俺の役に立ったのかは判らない。だが、今これが必要なのはヴァイス、お前だ」

 思い上がりかも知れない、勘違いかも知れない。しかし今はそれが真実だと思う。自分は、ヴァイスを救いたかったのだ。だからこそ剣を向けた、大切だからこそあえて。例えかつての部下を皆殺しにしたとしても、ヴァイスだけは助けたかった。残酷にも人は人を選ぶ。かつてガルドが自分を選ばず、そして自分が魔剣を選ばなかったように。

 彼は大切な存在、そう確かこのような時に使うべき言葉があった。

その言葉は、友。

「クク、クハ、ハハ、フハハハハハッ!」

 ヴァイスは左手の短剣を投げ出して笑い始めた。だが体をのけぞらせて声を上げるその様はまるで泣いているようであった。それほどまでにその声は虚しく、悲しく、そして哀れだった。

「そういうことか、シビル。俺は結局、お前と何一つ、何一つ!」

 両手を上げてヴァイスは叫ぶ、まるで天に哀れみを乞うかのように。

だがその天は黒煙に閉ざされて何も見えない。そしてその黒煙を上げたのは誰でもないヴァイス自身だった。

「ヴァイス!」

「来るな!」

 そんなヴァイスに駆け寄ろうとしたアネットを、ヴァイスは叱咤して制止した。

その声にアネットの動きが止まった。

「来ないで、くれ」

 ヴァイスは両肩を落し、つぶやくようにアネットに言った。大地を這うように流れてきた黒煙がその姿を包み始める。炎を上げる周囲の家々が崩れ落ちようとしていた。間もなくこの名もなき村は消え失せる。憎しみも悲しみもその痕跡は周囲の森に飲まれてやがてそれも消えゆくだろう。

 いつものように猫背気味の姿勢で前へ進むと、シビルの剣を気にする事なくその手から笛を受け取った。一呼吸する間、手元の笛を眺めると懐へしまい込む。

「笛は俺の手元に帰ってきた。自分の手で、すべてに決着を付けなければならない」

 シビルに、そしてアネットに背中を向けながらヴァイスは言った。更に周囲の煙が濃くなっていく。

「俺の後任はステンノーだ。あの女は、俺よりも隊長にふさわしいはずだ」

 ヴァイスは自分を取り囲む黒煙の中を行く。アネットの元へ進む訳でもなく、帝国へ戻る訳でもなく、自分が自分としてある為に足を進める。

「待って、ヴァイス!」

 再度アネットが駆け出した。その背中へ近付く為に。だが勢いを増す炎と煙が行く手を阻む。熱い風が喉を焼き、黒い煙が目にしみる。炎は焼き尽くす。それの、それらの過去も未来も何もかも全てを。

「アネット、俺は・・・・・・」

 一瞬、ヴァイスが足を止めたかのように見えた。しかし直後に崩れ落ちてきた瓦礫がヴァイスを覆い隠してしまう。劫火と轟音の彼方にその背中は消えた。

「ヴァイス」

 それでもなお無謀にも駆け寄ろうとするアネットを、グライドが後ろから両肩をつかんで制止した。

「ヴァイスー!」

 果たして届いたのか、届かなかったのか。アネットの叫びは視界を奪おうとする炎と煙の中に虚しく吸い込まれていった。

 また村が一つ、消える。炎と煙が去った跡にはただ炭と石だけが残される。かつてそうし続けてきたはずのシビルは、剣を萌黄色の鞘にしまいながら珍しそうにかすれていく光景を眺めていた。

 黒髪の少女も、また。


<7>

 西の彼方に陽が沈む。

 残照に伸ばされた影が土の上を這う。

蒼天を黒く塗り潰していた黒煙はもうわずかに立ち昇るだけ。天幕に引き伸ばされた絵の具は紺から紫へそして朱へと交わりながら移り行く。だがその美しい光景の下で広がるのは無数に立てられた墓標の群。

 隠れ里に侵攻したブラットバーンズは部隊と呼べない程の少人数だった。少数精鋭で来たのかそれともそれだけしかたどり着けなかったのか、もはや口を利ける者が誰一人残っていないので理由は定かではない。判っているのは数で勝る王国軍が半ば絶望的な戦闘の末に村を制圧したと言う事。村の広場には今、黄昏の風に吹かれて飛龍の旗がひるがえっている。

 ブラットバーンズを全滅させた後の王国兵たちには更に過酷な任務が残っていた。

それは死に絶えた者たちを埋葬する事である。穴を掘り、死体を運び、穴を埋め、墓標を立てる。それを何回、何十回と繰り返し行う。それは何ら前向きではない非建設的で憂鬱な作業。帝国兵の死体はまとめて一つの穴に放り込んですませた。他の村人や王国の兵士に比べればぞんざいな扱いだったが、彼らに言わせればそれでも最上級の待遇だった。

 王国の兵士たちの墓標には名が刻まれているが、村人たちの墓標には何もない。兵士たちが村人の名前を知る訳がなかったし、唯一知っている者は口をつぐんだまま何も語ろうとしなかった。ただ運ばれ土を被せられていく見知った者の死に顔を見つめているだけで何もしない。アネットが全身にこびり着いた血を丁寧にふき取り、すすにまみれた髪の毛に櫛を通して上げている時も無言だった。

 何も感じていないのか、あるいは何かを感じ過ぎてしまったからなのか。糸の切れた操り人形のような少女を見て、兵士たちは何かをささやき合っては目を反らしていた。

「あんた、名前は?」

 シビルがそんな少女に声を掛けたのは、一通りの埋葬を済ませた兵士たちが野営の準備を

し始めた頃だった。村を制圧したとは言え、この広大な森のどこかに帝国軍が残っていないとは限らない。そんな危険が息を潜める夜の森を行軍するような真似を正規軍がする訳がない。分隊ばかりが集まって統率者のいない王国の兵士たちを見かねたグライドが、的確に指示を出して野営の準備を速やかに進めて行く。レジスタンスのリーダーにしては、その動きは洗練されていて無駄がない。昔はどこかの軍隊で士官を勤めていたのかも知れなかった。

 だがそんな事は今のシビルには関係ない。少女からの返答が得られないと、シビルはその隣に並んで同じ方向を見た。そこには雑然と墓標が立ち並んでいる。これだけの無数に木々が突き立てられていると、そこは墓地であるという説得力が失われる気がした。何事も度が過ぎると紛れも無い事実であっても現実味が薄れてしまうものらしい。

「どうして、助けてくれたのですか」

 声がした。シビルは慌てる訳でもなく、目だけを横に動かして隣の少女の姿を見た。

それは間違いなく黒髪の少女から発せられた声だった。起伏のない棒読みのような言葉、

ヴァイス以上にその声には気怠さが漂っていた。

「俺が、あんたを助けた訳じゃない」

 シビルの答えに少女は微かに首を傾げ、そしてシビルの顔を見上げた。紫の瞳が淀んだ夜の海のような薄暗さをたたえている。

「それどころか、今日村を焼き、あんたを捕らえようとしたのは俺だったかもしれない」

 視線を前の墓標群に戻しながらシビルは続けた。

 もしも、あるいは、そんな言葉は妄想の世界でしか役に立たない。だからもしも、自分があのままブラットバーンズの隊長であり続けたとしたならば、あるいは魔剣コルブラントを持ち続けていたとしたならば、間違いなく自分はこの場所に来ていたであろう。この黒髪の少女を捕らえる為に。

「俺は少し前まで、奴等と同じだった。いや、今でもそう違いはない」

 今日も多くの人間をこの手で殺めた。剣を振るい、肉を切り裂き、血を流させた。その事だけならば自分の行いは何も変わりはしない。剣先がどこへ向けられているかだけの問題。

「俺が奴らと戦ったのは、借りがあるからだ。誰かの為にとか、立派な理由じゃない」

 結果だけで話をする事が許されるのならば、自分はヴァイスに助けられた。ヴァイスがいなければ魔剣を捨てる事もなかったはずだ。だから今度はヴァイスを助けたかった。大切なものから離れたまま、再び歩み寄る事へのあきらめから救いたかった。

 これで借りは笛と共に返したはず。

「フェイラベル」

 何の脈絡もなく少女がつぶやいた。聞き覚えの無いその言葉に、シビルは眉間にかるく皺を寄せた。そうしていると少女がゆっくりと足を踏み出し、シビルの前まで進むと墓標の群を背に振り向いた。その長い黒髪が黄昏の中で揺れる。それはまるで深い紫色に染まりゆく風の流れが、目で見えるように現れたようであった。

 そこでシビルはそれが少女の名である事を理解した。

「あなたは借りがあるから戦ったと言いました。そして私はそのあなたに借りができました。だからどこへでも連れて行って下さい」

 自分の肩越しに投げかける紫の瞳でフェイはそう言った。そして背中をシビルに向けたまま、ゆっくりとその手をさしだす。言葉の通りどこへでも連れて行けというように、あるいは逆にシビルをどこかに連れて行こうとするように。

 その姿は実に、得体が知れなかった。

 躊躇した。だが残照でさえも彼方の峰に吸い込まれ、世界から急速に光が失われて行ったその時、影絵たちが大地の中へ姿を沈み込ませたまさにその瞬間。


 白い羽を見た。


 果たしてそれは幻であったのか。確かにそれを見た、だがどうして見えたのか判らない。

今、目の前にいる少女は白さとも明るさとも無縁の存在のように思えるというのに。むしろアネットの方がそれは似合っていた。

 だが確かに見えた。

 そう確信した時、シビルの手は自然に伸ばされていた。フェイの手を下に、シビルの手を上に、そして二つの手が重ねられる。何もないと判った男と、何もないと信じていた少女が今、出会った。この出会いが何をもたらし何を意味するのか、それは判らない。そう、判らない。二人には何も判らなかった。

「判った、連れて行こう」

 だから手を繋いだ。

「世界へ」

 夜の帷が下りる。今日の血生臭い光景に幕を下ろすかのように。だがシビルには判っていた。まだ何も終ってはいない。いやこれからこそが始まり。向かう先は栄光かそれとも破滅か、道は足元さえも判らない黒い霧の中へと伸びている。

 重ねられた自分の手が握られた気がした。だが目の前の、この夜空と同じ色の瞳は何も語らない。気のせいだろう、シビルはそう思った。

 夜が訪れる。夜明けはいつの日か。


 この日、一つの村が滅んだ。だがそれが歴史書に記される事はない。

 この一つの男女の出会いもまた。


<第二部 完>


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