2021年12月30日木曜日

小説 SERAPH eau rouge #1 魔剣 COLLBRANDE  作:川合 稔

 何もない。

 何も見えない。

 何もありはしない、ただ暗黒だけが広がる。

 動かない。

 動かせない。

 動かしはしない、ただ凍りのように固まっている。

 それは闇。

 どこまでも深く、どこまでも広い永遠の闇。

 だが確かにあの時、その闇の中で光るものがあった、動くものがあった。

 それが何を意味するのかは判らない。

 判るのはその時、確かに何かを感じたということ。この深く暗い闇の中で。

 

 多分それは、白い翼だったと思う




 独特の空気というものがある。例えばそれは劇場の舞台裏の猥雑さであり、また閲兵式を控えた兵舎の緊張であり、また初陣を前にした新任士官たちの高揚でもあった。

 そして今、シヴィレアー・シュタウフェインが身を置いているのは、それら猥雑さと緊張と高揚が入り交じる戦場の空気であった。だがその空気の中心にいるシビルは、そのいづれにも心動かされる事はなかった。


 髪の毛の色は身に纏った鎧と同じくすんだ銀色。そしてそれは刃の色でもあった。

 濃い茶色の瞳は目の前で行き交う兵士たちを見ているのか、それとも見ていないのか判らない。それはまるで特に誰に向ける訳でもなく抜き身の剣をぶら下げているような不気味な危うさを感じさせた。

 本陣の中央で椅子に座るシビルに一人の兵士が近づいてきた。武器も、鎧も、

そして規律さえも定められていないこの傭兵部隊ブラットバーンズにおいて、ガルド帝国正規軍の軍装をしている者は少ない。

「首尾は」

 シビルはすぐにその者が前線から戻ってきた伝令だと判った。

ブラットバーンズに正規兵は隊長のシビル以外は数人の小隊長と伝令ぐらいなものだからだ。後はほとんどが様々な理由によって帝国と契約を結んだ傭兵たちだ。目的は金か、権利か、それ以外のものか。

 それはシビルですら知らないし知る必要もない。

「市街地での戦闘は大方終了しました」

 シビルの前で跪くと伝令はそう言った。その報告を聞いたシビルは顔を横に向け、

本陣の西側に広がる町へ視線を向けた。本陣は町から少し離れた丘の上に設営されており、肉眼でも町の様子を見る事が出来る。崩れた壁や、巻き上がるほこりに煙、細かく動く人影、二度と動かない人影。

 その光景に何ら感慨を受けた訳でもないシビルは、視線と共に顔を正面へと戻した。

そこにはまだ伝令が跪いたまま残っていた。

「それで」

 シビルはその一言だけで、伝令に残りの使命を果たす事を急かした。その声を聞いた伝令の肩が一瞬震え、そして再び口が開かれた。

「その、村中央の屋敷に女子供が立て籠もっておりまして」

「どのくらいで片付きそうだ」

 シビルの声に抑揚はない。あくまでも事務的に言葉を紡ぐ。その言葉が人の命を左右するのだとしても関係はない。

「に、日没までには何とか」

 シビルは目だけを動かして太陽を見た。まだ陽の光は乾いた大地を照らしてはいるものの、遠くアルジェの山々にその太陽が隠れるのにそう時間はかからなさそうだった。伝令の言葉はその場しのぎの適当なものか、あるいは認識不足からくるものか。どちらにしても、当てにはならない。

「屋敷に火を放て」

 シビルは淡々とその命令を下した。

「はっ?」

 伝令がそう聞き返すまで数秒の間があった。周囲を行き交っていた兵士たちも思わず足を止める。修羅場に慣れている傭兵たちでさえその無骨な顔に驚きの表情が露わになっていた。

「屋敷から逃げてきた者は皆殺しにしろ。もっとも、全て燃えてしまえばそれが楽でいいがな」

 ここでシビルが邪悪な笑みを浮かべれば、それはそれで周囲の者は納得したであろう。

だがこの時もシビルは無表情だった。まだ書類の書き写しを命じる文官の方が言葉に抑揚がある。

 ブラッドバーンズ隊員曰く、シビル隊長は悪魔に魂を売ってはない。なぜなら売ろうにも魂がないからだ、と。

 無言の伝令を見下ろしながらシビルは椅子から立ち上がった。立ち上がりざま、腰に吊した魔剣コルブラントが鎧に当たって音を立てた。

「ついてこい」


 空が赤い。

 すでに太陽そのものはアルジェの彼方に沈み去り、ただその残光が禍々しいまでに空を赤く染め上げていた。その空を埋め尽くすのではないかと思われるほど巻き上がっていた煙も、いまはたき火程度のものにすぎない。

 灰の山に残る数本の柱の傍をシビルは無言で歩いていた。結局、屋敷から出てくる者はいなかった。

 それは出てこられないように火で建物を包囲したせいなのだろうが。周囲では数人の傭兵たちが汚物に手を触れた時のような渋面をして立っている。目は足下の灰の中に混ざっているものを正確に見つけだす。

 しかしそれが何か理解しないよう心がける。そこでうずくまって吐いている伝令のような失態を見せない為にはそうしなければならない。

 だがシビルは淡々と現場を視察している。特に何かから目を背けたり、何かを心がける必要もない。黒く焦げた柱も、腕も、同じように踏みつけていく。何も変わらない。変わりはしない。

「隊長・・・・・・」

 声を掛けてきたのは小隊長の一人だった。戦場で畏怖の対象となる帝国式の鎧も、すすにまみれてみすぼらしくなっている。押し殺したような声で右手で敬礼をしつつ続ける。

「負傷者はいません。いつでも帰還できます」

 いつもの鋭いがどこを見ているのか判らない目のまま報告を聞いていたシビルだったが、その視界に何かが写り込んだ。

 不意に、特に意識した訳ではない。だが沈黙の灰に覆われた大地の上にそれを見つけた。

 白い、羽。

 あの業火をどうやって逃れたのかは判らないが、一枚の羽がそこに落ちていた。汚れず、濁らず、美しい純白。この場所においてそれは最も異質な物に思われた。

 刹那、風が吹いた。

 煙を脅させ、灰を巻き上げ、シビルの銀色の髪を撫でながら一陣の風が吹き抜けていった。シビルの目が一瞬閉じられ、次に開けた時にはもうその羽はもうどこにも見えなかった。飛んでいったのか、それとも初めからなかったのか、もう判らない。

『・・・・・・だよ』

 シビルは目を細めた。何かが聞こえた、誰かが呼んだ。だが訝しむ目がそのまま見開かれた。

視界が揺らいだかと思うと、何かに引っ張られるかのように体を崩して片膝をついた。

「隊長?!」

 小隊長が慌てて駆け寄る。あのシビル隊長が片膝を付く事など最前線のまっただ中でもあり得ないからだ。

「軽い目眩・・・・・・大丈夫だ」

 差し出される手を無視して、シビルはつぶやくようにそう言いながら自力で立ち上がった。何だったのだろうか。自分の身に起こった事が自分でも判らなかった。心配そう、というよりは怯えるような目をこちらに向ける小隊長へ向き直る。

「撤退する」

 それだけを言うとシビルは一人で歩き始めた。背後で小隊長が何か言っているようだが構わず足を進める。何か判らないが、その判らないものが自分をどうにかしようとしているのが判る。

(判る? 何が判るというのだ)

 足を動かすたびに腰の魔剣コルブラントが鎧に当たって音を立てる。

それはまるで笑っているかのようだった。 


 ガルド帝国の歴史は新しい。

 元々、この地にはレーグルという古い王国が存在した。

しかし現皇帝ガルドが二十年前に王国の姫の娘婿として王室入りし、その他の王族を排除して事実上政権を簒奪、そしてガルド帝国を築いたのであった。

そして十年足らずの内に地方国家にすぎなかった王国を、大陸屈指の軍事国家に仕立て上げたガルドの手腕は驚異としか言いようがない。それはまるで神業のようだと誰かが評していた。

 そして今、謁見の間でシビルは跪いていた。その先の玉座に座るガルドへ向かって。

皇帝の人となりを現すように謁見の間は特に装飾も施されずに、辛うじて黄金をあしらった玉座がある程度の無骨な造りだ。

 近衛の騎士たちが両脇に立ち並ぶ中、扉から玉座へ向かって伸びる真紅の絨毯の上でシビルは膝を付けていた。

「早かったのだな。つい先刻出立したような気さえするが」

 シビルから一通りの報告を聞いた後でガルドはそう言った。

もう時の流れが決して味方をしない年齢であるにも係わらず、シビルを見下ろすその瞳はぎらぎらと輝いている。

太陽の光を模したと思われる黄金の杖を持つその腕は、眼下に並ぶ近衛騎士の誰よりも太く肌に張りがあった。

「あの程度の反抗で時間はとれませぬ。兵糧も陛下の財産たりますれば」

「グアーッハッハッハッハ! 言いおる、言いおるわ!」

 跪いたままのシビルの言葉に、ガルドは玉座から体を乗りだし目を見開き歯を剥き出し笑いながらそう言った。

それは何とも楽しそうな様子であった。

「頼もしい奴よ」

 ガルドはそう言いながら玉座に座り直した。

ブラッドバーンズはガルドが帝国を打ち立てる前からの子飼いの部隊である。

今この場に居並ぶ近衛騎士団よりも重用されており、むしろ皇帝直属のブラッドバーンズの方が近衛より近衛らしかった。

だから一年前にシビルをブラッドバーンズの隊長に任命した時も、どういう理由でどういう経緯で何よりシヴィレアー・シュタウフェインが何者であるのか疑問を唱える者は誰も居なかった。

「ならばその頼もしきそなたに近い内もう一仕事してもらうとしよう。今夜はゆっくり休むのだぞ」

「はっ」

 ガルドにしては親切と言える言葉を表情を崩すことなく受け止めると、シビルは一礼をしたのち立ち上がると玉座に背を向けて歩き始めた。シビルが扉の前まで来ると近衛騎士が二人進み出て扉を開ける。

 そしてシビルが扉の外へ足を付けると再び扉は閉め切られた。

 その間、声を出す者は誰もいなかった。

「グフフフフ」

 玉座で含み笑いをするガルドを除いて。


「シヴィレアー」

 謁見の間を後にして廊下を歩いていたシビルは背後から声を掛けられた。

しわがれたその声の主が誰かは確かめるまでもなかった。足を止め、少し待ってから後ろを振り返る。

 前も後ろも続く石畳の廊下の景色に変わりはない。ただその人物が居る事を除けば。

「無事に帰ってきたのだな」

 高位の者しか着る事を許されない紫色のローブに、へその辺りまで伸びたくすんだ白色のあご髭、熟練した戦士が肌に傷を刻むように深い皺の彫られたその顔は、魔術師団長ウォーレスその人だった。

 帝国では余り魔術の研究は行われておらずその権威もたかが知れているが、

大陸に名高いランバート王国でその智と技に磨きを掛けたウォーレスだけは別格だった。シビルは礼を損ねない程度に軽く会釈をして答えた。

 そのシビルをウォーレスはしばし見つめていた。いや、観察していたというべきかも知れない。

 その知識を求める者たち特有の探るような視線に、シビルは嫌悪感を抱く前に警戒した。

 相手に気取られない程度に微かに体を動かして、魔剣コルブラントが腰からぶらさがる重さを確かめる。

 ふと、ウォーレスの目が変わった。

「皆殺しにしたそうだな」

 まただ、またこの目だ。初めて会った時から、ウォーレスは時々この得体の知れない目でシビルを見る。

 誉めるガルドの目でもなく、脅える部下の目でもなく、切りかかる敵の目でもない。知らず、理解できず、得体の知れないその目で。

 シビルは答えない。

 それは自分への命令であり、自分の役目である。だからそれを否定する必要はない。

そして同時に肯定する必要もない。それはいつもの事なのだから。

誰が瞬きをする事に、息を吸う事に理由を付ける者がいるだろうか。

 ただウォーレスを見た。

 自分を見るその瞳が深くなった。浅い川の流れがやがて底知れぬ海へと変わりゆくように。

「これが、ガルドのやり方か」

 ウォーレスがつぶやいた。その時、シビルの顔を見ていた視線は腰の魔剣コルブラントへと移っていた。そしてため息をつくと、シビルに背を向けて元来た道を戻って行った。

 シビルはウォーレスの行動も、言葉も、思考も、目的も、何も判らなかった。

 その瞳に込められた懐かしさ、悲しさ、そして優しさも。


 陽が沈めば大地は暗黒に覆われる。何人たりともその夜の帳から逃れる事はできない。

むろんブラッドバーンズ隊長とて例外ではない。闇は眠りを誘い、眠りは夢を紡ぐ。そして夢は心を映し出す。

(ここは・・・・・・)

 シビルは闇の中に居た。辺りには何もない、何も見えない。ただ自分の体だけが瞳に映し込まれる。

夜の闇とは異なる暗黒の世界。

(俺はどこにいる? 何をしている?)

 記憶も、そして思考さえも朧気だった。泥水が溜まった池のような、そんな濁った感覚。

「ここ、ここだよ」

 だからその声が聞こえた時も反応が遅れた。これが戦場であったならば、間違いなく致命的になる程の遅さだ。

「誰だ?!」

 シビルは自分の鈍さに戸惑いつつも、声の主を捜して周囲を見渡した。しかしいくら首を振っても、目を動かしても、何も見えない。

「ここにいるよ」

 ただ、声だけが聞こえる。

「誰なんだ!」

 シビルの声が荒いものになる。シビル隊長のそんな声を聞いた者など恐らく生者の中にはいないであろう。

 焦っていた。経験した事のない感覚が体を包み込もうとしている。どう対処すればいいのか判らない。この感覚は何なのか。その焦りが凪いでいた水面に波紋を立たせていた。

「判らないのかい? 僕だよ」

 闇が割れた。

 その闇の狭間に姿を現したものがあった。

「子供?!」

 それは子供の姿だった。年端もいかない子供が、その茶色の瞳をシビルに向けていた。

「僕は、君だ」

 目の前の子供がそう告げた。

「俺?」

 そう呟くシビルに子供が足を向ける。ゆっくりと歩いて近づいてくる。ただ立ちつくすシビルの目前までその姿が迫る。

 夢か、現か。

 それを確かめようとシビルが手を伸ばした時、

 崩れた。

 子供が石の彫刻のように固まったかと思うと、そのまま崩れて塵になる。粉みじんに砕け散る。

 塊。

 驚いて見開かれたシビルの瞳に、無数の塊の姿が飛び込む。それは焼けこげた人間の体だった。

 死体。

 死体死体。

 死体死体死体死体死体。果てしなき死の集まり、沈黙の入れ物、光無き瞳。闇。

 黒い塊となった死体がシビルを包む。

「これは、これはっ!」

 死体しか映らない目を動かしながらシビルが叫ぶ。この空間に死体でないものは自分しか存在しない。

 否。

 シビルは自分の両手を見た。

 それは黒く変色した後に、砕け散った。

「うわぁぁぁぁぁぁっ!」

 闇。


漆黒の闇が夜の闇に変わった時、シビルはようやく理解した。

自分が居るのはガルド城内の自室の寝台の上であり、そして今まで見ていたのは夢だったという事を。

寝台から体を起こし、全力疾走した後のように乱れる息を整える。あれは何だったというのか。

 石壁に埋め込まれた窓から銀色の光が差し込んでいる。シビルは額の汗を服の袖でぬぐいながら、寝台から降りてその窓へと近づく。窓の外は夜だというのに明るかった。それは夜の帳に無数の星々とたった一つの満月が輝いているからだろう。

 夜は闇ではない。

 では闇とは何か。

 シビルは寝台の脇に立て掛けてある魔剣コルブラントを見た。その鞘は黒い。

返り血をいくら浴びたか判らないほど黒い。

「ん?」

 ふいに、シビルは顔を上げた。空気が静寂と共に沈み込んでいるような石壁。その彼方から何かが聞こえてくる。常人ならば判らないかも知れないほどの小さな音。しかしシビルの鋭角な感覚はそれを的確に聞き取っていた。

「笛の音」

 ガルドがたまに戯れで呼ぶ楽団の奏でる音とは違う、単純で、素朴で、悲しい音色。

音は陽の沈む方角から聞こえてくる。

 もう一度、窓から外を見た。風が城のあちこちにある帝国旗をはためかせている。

 シビルは壁に掛けてあった外套を羽織ると、魔剣コルブラントを持って部屋の外へと出た。


 絶大な力というものは慢心を招く。西の塔に見張りが誰もいなかったのはその為だろうか。吹き抜けの内側にへばりつく螺旋階段を上り、レーグルの町とアルジェの山々を見渡す塔の天辺に出る。

 音色の主はそこに居た。

「ヴァイス?」

 それは必要のない問いかけだった。ブラッドバーンズ隊長補佐、ヴァイス。宵闇の風にその黒髪を流れるままにする彼もまた、血と煙と死の世界の住人だった。ヴァイスはシビルの声を聞くと、演奏の手を止めて振り返った。

「お前の笛か」

 その手には横笛が握られていた。装飾も何もない簡素な笛だ。だが月明かりの下でそれは確かにそこにあると主張していた。

「これか? 借り物だがな、返せそうにない」

「死んだのか」

 シビルは魔剣コルブラントを杖のように持ち、その先端で床を突いた。死。それは彼らが彼らの手で生み出す最も身近なもの。

「まぁ、な。もっとも死んだのは借り主の方だがな」

 そう言ってヴァイスは笑った。それは力のない、諦めたような笑いだった。

月の光が太陽の光に比べて弱々しいのと同じように。

 ヴァイスの笑みと、そして言葉の裏には何かがうごめいているようだった。しかしシビルは別段それを気に留める事も、問いただす事もない。この二人の関係はそういう関係だった。

「所でこんな所に何の用だ? 顔色が良くないが悪い夢でも見たのか」

「まさか」

 月明かりの下で他人の顔色が判るはずもないし、自分自身の事を語る必要もない。

ヴァイスの言葉をシビルはにべもなく否定した。

「下らない質問だったか、冷酷非情なブラッドバーンズ隊長であらせられるシヴィレアー・シュタウフェイン殿には。

魔剣コルブラントはお前にこそ相応しい」

 シビルとヴァイスがブラッドバーンズに入った時期はほぼ同じだ。しかしシビルは隊長であり、ヴァイスはその補佐であった。シビルはそれ以前の記憶は何もないし、ヴァイスのそれ以前の過去は知らない。

 だが二人は戦場以外でも行動を共にする事が多い。ヴァイス曰く、それは刹那的な友情なのだという。シビルにはそれが何の事なのか判らなかった。

「だがこの魔剣」

 魔剣コルブラントでもう一度床を突く。鈍い音が夜の風に紛れて響く。それは先ほどの笛の音に比べて、何か虚しい音だった。

 何だろう、この感覚は。今夜は今まで感じた事のない事を感じ、考えた事のない事を考えているような気がする。

「陛下から賜ったこの魔剣を手にしていると、自分が自分でないような気がするのだ」

「自分が自分でない・・・・・・?」

 シビルの言葉に、ヴァイスは訝しげな目を向けた。

ヴァイスはシビルのそんな言葉を聞くのは初めてだったし、シビルはヴァイスにそんな言葉を聞かせるのも初めてだった。

「それに・・・・・・」

「それに?」

 ヴァイスがオウム返しに尋ねる。

「いや、何でもない。疲れているのかも知れない」

 自分でも何を言っているのか、何を言いたいのか判らなかった。

「そうだな、たまにはそういう事もあるだろう」

 その言葉を聞きながらシビルはヴァイスに背を向けた。月は高く、夜の帳はまだ開けそうにない。今は眠る時だ。

「シビル」

 塔から下ろうと足を出したシビルにヴァイスが声を掛けた。シビルは首だけで振り返って後を見た。

「この笛、お前が持っているといい」

 ヴァイスはそう言ってシビルの隣まで近づくと、返事も聞かずに笛をその手に握らせた。

笛のその感触は、魔剣コルブラントの感触と余りにも違った。

「ヴァイス?」

「まぁ、自分を見失わない為のお守りみたいなものだ」

 ヴァイスはそう言ってシビルの肩を叩くと、そのままシビルを追い越して螺旋階段を下っていった。

「おい」

「じゃあな、早く休めよ」

 ヴァイスの黒髪が螺旋階段の彼方に消えた。塔の天辺にはシビルと魔剣と、

そして笛だけが残された。そのいづれにも月の光は分け隔てなく降り注ぐ。

 しばらくシビルはそのまま立ちつくしていた。

 夜は闇ではない。


 月の光は時の流れ共に満ち、時の流れと共に欠ける。

それを何千、何万年も前から繰り返している。人がいかほど世代を重ねようとも争いを繰り返すように。

 三分の一ほど欠けた月はすでにその姿を消していた。

今は月と陽の狭間の時間。薄暗がりの中でシビル達は森の中に潜んでいた。

目の前には堀に囲まれた村が見える。傾いた木の柵、蔦の這う石壁、風雪の染み込んだ藁葺き屋根、どこにでもあるただの村。

しかし村の入り口には夜明け前だというのに二人の若者が立っている。

頭には木の帽を、胸には革の鎧を、手には長槍を。

「貧弱そうな奴らだ。俺なら左手一本で十分だな」

 シビルの後に居た頭を剃り上げた大男が見張りの様子を見て言った。

その声を聞いた何人かが笑い声を上げる。帝国式の鎧を着た小隊長が注意するが、

彼らは初めから聞く耳など持っていない。

「ククッ、部隊の編成を間違えたか」

 シビルの右隣でヴァイスが笑う。

 ガルド城からアルジェ山脈を挟んだ北側にヴェルダ村はある。

ここに帝国に逆らうレジスタンスの拠点の一つがある事が判ったのはつい先日の事だった。

しかしアルジェ山脈を軍勢が越えてくれば簡単に察知されてしまう。ゲリラ戦術を採るレジスタンスは逃げ足も早い。

ガルドはブラッドバーンズに一個小隊だけでヴェルダ村を奇襲、殲滅するように命じた。

夜を撤してアルジェの山々を越えたシビル達は、レジスタンスに察知される事なくヴェルダ村の眼前まで進むことができた。

 ヴェルダ村はほぼ村全体がレジスタンスと化しているという。

だとすれば一個小隊だけでは数的には互角以下になる。そこで経験豊富な傭兵たちが大半を占める編成となった。しかし傭兵の経験の豊富さと従順さとは反比例する。ヴァイスの言葉は統率が取れてるとは言い難い背後の集団に対する評価だった。

「ヴァイスは分隊を率いて北側に回り込んでくれ。俺は本隊を率いて正面を進む」

 だがシビルはいつも通り淡々と指示を出すだけだった。

「判った、互いに油断ないように、な」

 ヴァイスが後方に下がりながら言った。

「ああ」

 シビルは正面を向いたまま答えた。

 後方に下がったヴァイスは小隊を二つに分けると、その一つを率いて森の奥へと消えた。

続く傭兵たちはこれから奇襲をかけるにしては騒々しかったが、幸い堀の向こうの見張りには気付かれていないようだ。

 夜の暗がりと、森の暗がりの中、残ったシビルたちはしばし待つ。微かに東の空が明るくなってきた。

その方角には海がある。海の彼方にはグランデル王国があるはずだ。雪と氷に閉ざされた北の大地で、ミトラ教徒曰く火の神に守られた白の国。白銀の世界などシビルはほとんど見たことがなかった。地平線まで続くという純白の平原というのはどのようなものなのだろうか。一度でいいから見てみたいものだ。

(何を考えているのだ、俺は)

 シビルは自分の頭に浮かんだ一連の考えを、自分自身で笑い飛ばした。

海の向こうの世界に思いを馳せるなどどうにかしている。今はそんな場合ではないというのに。ひ弱なレジスタンスを相手にする事に対する余裕か。いや、そもそも余裕とは何なのか。

「隊長、始まりましたぜ」

 先ほどの剃り上げた頭の男、確かボーナムといっただろうか、その男が口元に笑みを浮かべながら声を掛けてきた。シビルがはっとして村の方を見ると、北側から声が上がる。見張りの兵士が驚いているのがよく判る。ヴァイス達が始めたらしい。

 戦争を。

「これじゃ俺達の分がなくなっちまうぜ、隊長さんよ」

 ボーナムが金槌で近くの木を軽く叩きながら言った。その顔は血と煙に慣れた傭兵の顔だった。では自分はどんな顔をしているのだろうか。

(まただ)

 シビルは頭を振ると魔剣コルブラントを鞘から抜いた。そして言う。

「突撃」

 短く、低い声。しかしその声は雪崩のような傭兵たちのかけ声を呼び起こした。

「うおおおおおお!」

 森から次々と傭兵たちが飛び出し、堀を越えて村の入り口へと殺到する。浮き足立っていた見張りは手にした槍を振るう事なく地に伏した。

 悲鳴、流れる血、与えられる死。その中へシビルも足を進める。

 奇襲は完全に成功したらしい。家の中から武器も持たずに男たちが飛び出してくる。

そして飛び出す傍から容赦なく切り捨てられていく。剣を、斧を、槍を、鎚を、傭兵たちが振るうのは人を殺す為だけの道具。そしてそれはそれが作られた目的を完全に果たしている。

 物陰から誰かが飛び出してきた。顔も動かさず、ただ右手だけを振った。

 ズボンだけを着た男が、手にした剣を落とし膝をつく。

「貴様ら、こんな事が許されると思うなよ」

 男はそれだけを言って絶命した。シビルの持つ魔剣コルブラントもまた、その目的を果たしていた。シビルの手によって。

 この先、どれほどの死を自分は作り続けるのだろうか。

(どうしたんだ、俺は)

 シビルは再び頭を振った。霧の彼方から飛び出してくる鹿のように、

思考の奥から考えたことのない考えが次々と沸いて出てくる。どこから来るのか判らない、

何なのか判らない感情が頭を覆い尽くそうとする。

「はっ!」

 今度は頭を振る代わりに、飛びかかってきた男の剣を魔剣コルブラントで受け止めた。

ここは戦場、今は戦争、自分は兵士なのだ。シビルは剣戟に意識を集中する。剣を受け止め、流し、切り返す。

(強い?)

 シビルは怪訝な顔をした。今まで素人同然のレジスタンス相手に剣を打ち合う事などなかった。

しかし相手は手練れという訳ではない。その鈍い剣に自分が押されている。

(違う・・・・・・俺が弱い、のか?)

 数回の剣戟の後に、ようやく魔剣コルブラントはその刀身に血をすすらせた。

地面に横たわる動かなくなった男をシビルは見下ろす。剣がやけに思い。身体が思う通りに動かない。まるで何者かに押さえつけられでもしているかのようだ。

 煙が上がる。周囲の家に火が付けられ始めた。怒声と悲鳴が入り交じりながら村を包む。

見慣れたはずの光景。いつもの光景。だがそれがひどく違和感を伴ってシビルの瞳に写り込む。何かが、そう何かがおかしい。しかしそれが何か判らない。

 シビルは額に左手を当てながら歩き続けた。

 死の中を。



 ここにはある程度の規模のレジスタンスの部隊がいるはずなのだが、奇襲により戦闘集団としては機能しなくなっていた。集団対集団の戦闘ではなく、個人対個人の戦闘では所詮素人にすぎないレジスタンスに勝ち目はない。このようになっては作戦など立てる必要もないし、部隊を指揮する必要もない。指揮官たるシビルの役目は終わったと言っても過言はなかった。しかし部下の傭兵たちにはまだやる事が残っていた。

 燃えあがる民家の合間をシビルはあてなく歩いていた。抵抗する者はだいたい殺し尽くした。散々血を浴びたはずの魔剣コルブラントが炎を受けていつもよりその刀身が輝いて見える。

 シビルが足を止めた。行き止まりの路地裏、そこに数人の人影が見えた。

周囲の家にも火は付けられていたが、まだここまで炎に包まれるには時間があるようだった。

「誰だ!」

 その中の一人、赤い髪の毛を逆立たせた男がそう叫びながら、鎖の付いた鉄球を構えてシビルの方を振り返った。その顔にシビルは見覚えが合った。またそれは向こうも同じことだった。

「何だアレックス、隊長さんじゃねぇか」

 もう一人はボーナムだった。赤毛のアレックスの肩に手をおきながら、にやにやと笑いながらシビルを見た。愛用の金槌は朱色に染まって地面に置かれていた。

「俺たちに何か用です? それとも一緒にイイコトしようって言うんですか?」

 アレックスが両手で鎖を持て遊びながら言った。

彼らの向こう、その足元に一人の少女が倒れているのが見えた。シビルはアレックスの言った「イイコト」の意味を理解した。

「ウアッハッハッハ! そりゃいい。どうだい、隊長さん」

 ボーナムがその長身を退け反らしながら大口を開けて笑った。その大声に足元の少女が全身を震わせて脅えを露にしていた。

 レジスタンスに対しする帝国軍の対策は極めて単純だった。全滅をもって最良とする。

つまり焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす事である。そしてどうせ殺し尽くすのならばと、その前に少しばかりの戯れに興じるのが兵士たちの楽しみであった。

 しかしそのような戯れに興味も反発も抱かないシビルは、作戦に支障をきたさないのであればやりたいようにさせておくのが常であった。部隊の士気を維持する上でも、兵に楽しみを与えるのは指揮官の役割だと考えていたからだ。

 シビルはボーナムたちを一瞥するとその光景に背を向けて歩き出そうとした。

後ろで複数の笑い声とたった一つの悲鳴が上がる。それらはシビルにとっては何の意味もない、はずだった。


 羽。


 路地の出口、燃え盛る家の中に白い羽を見た。まただ、またそれが見えた。文字通り瞬く間に消えてなくなるその羽が。

 瞳から羽が失われた時、シビルはもう一度路地裏へ向き直っていた。

「どうされました? 隊長」

 三人目の男、銀髪を腰まで垂らしたコージーが踵を返したシビルに気が付いた。

ボーナムとアレックスは少女をその胸の下に組み敷いたまま顔だけを後ろに向けた。

 火の粉が舞う。石を積み、木を組み、人の手が造り上げた家々を、人の手が放った炎が犯し、焦がし、焼き尽くしていく。

炎そのものに意志など何もない。ただ燃える。燃やす為だけに燃える。

 それと自分に違いはあるのだろうか。

 シビルは手にした魔剣コルブラントをボーナムたちに向けた。

 コージーは目を見開き、ボーナムとアレックスは膝を上げた。熱気が辺りを包む中、向き合う三人と一人を炎が照らし出す。

近くで何かが崩れ落ちる音がした。遠くでは時折人の叫び声が聞こえる。

まだレジスタンスの抵抗は完全には止んでいないらしい。彼らは抗う事をまだ諦めてはいない。

 それは屈する事のない意志の現れ。

 コージーが両肩からぶら下げていた短剣に手を伸ばす。しかしそれをボーナムがシビルを見たまま手を伸ばして制止した。

「俺はね、隊長さんに一目置いているんだよ。冷酷非情なブラットバーンズ隊長、シュヴィレアー・シュタウフェイン殿」

 そう言うとボーナムは足元の金槌を拾うとシビルへと向かう。魔剣コルブラントはシビルに握られたまま宙に浮いている。その刀身にボーナムの長身が映し込まれた。ボーナムはそのままシビルの脇を抜け、炎が燃え盛る表通りへと出た。

「お、おい待てよ!」

 アレックスとコージーが慌ててその後を追う。三人の足音はやがて炎の音に紛れて聞こえなくなった。

そして魔剣コルブラントは炎だけを映す。その刃の先には戸惑う少女だけが残された。

 シビルは魔剣コルブラントを鞘に戻した。唾と鞘が当たり、微かな金属音が響く。

そしてシビルもまた路地裏から表通りへと足を向けた。

「あ、あの。私は・・・・・・」

 背中に掛けられる少女の声を無視してシビルは足を進めた。自分は何をしたのだろうか、何をしたかったのだろうか。

 判らない。

 熱気が通りを行くシビルの頬を撫でる。熱い。そう、炎は熱いのだ。シビルは初めてその事を理解した。

「珍しい事もあるものだな」

 いつの間にか目の前にヴァイスがいた。鎧に描かれた赤い帝国旗を血でさらに染めながら炎の辻に立っていた。

「お前らしくもない」

 そう言ってヴァイスは口元に笑みを浮かべた。

 らしくもない。

 では、自分らしさとは何だというのだろうか。

何がシュヴィレアー・シュタウフェインで何がシュヴィレアー・シュタウフェインではないのか。自分は何なのか。

「関係ない」

 ただそれだけ答えると、シビルは村の外れへ向かって歩き始めた。間もなくこの村は地上から消滅する。

 シビルの態度に意見する訳でもなく、ヴァイスもそのまま後を追う。今回の任務は終了した。

後は兵士たちをまとめて帰還するだけだ。これで帝国の不安様子がまた一つ取り除かれた。

全ては帝国の為に、ガルド皇帝の為に。

 骸骨を捧げよう。

「そう言えば」

 村を囲む堀の近くまで進んだ時にヴァイスが声を上げた。堀の向こうにはすでに兵士の大半が集まって休んでいた。来る時よりも増えた荷物は戦利品、彼らの貴重な副収入だ。

「途中で妙な会話を聞いた」

 ヴァイスがそう言いながら堀の中へすべり下りた。粗雑な造りの堀には膝下ぐらいまでしか水が溜まっていなかった。

「レジスタンスの奴等がウォーレス様はどうした、とか言っていた。おかしな話だろ」

 堀の底からシビルを見上げながらヴァイスは言った。

レジスタンスが帝国の魔術師団長を様付けで呼ぶなど確かにおかしい。

しかしそれ以上にヴァイスの目が気になった。

 何かを確かめるような、試すような、そんな目だった。

「関係ない」

 シビルは先程と同じ言葉を言いながら、堀をすべり下りた。水が革靴の隙間から足元にしみ込む。じわりじわりと、確実に。その感触はとても不愉快だった。

 ブラッドバーンズは日暮れ前にかつてヴェルダ村であった場所から撤退した。

 赤い夕焼けの中を。


 謁見の間で任務の詳細を聞いている間のガルドは終始上機嫌だった。

そして褒美としてブラットバーンズ全隊員に一週間の休暇と一時金を支給するとまでしたのだった。一時金と言っても平民の月給を遥かに上回る額の金貨を受け取った隊員たちは、そのことごとくがその日の内に町へと繰り出していった。正規兵も傭兵も関係なく連日町で騒ぐその姿は、まるで熱病にでも冒されているかのようだった。

 ただ彼らを除いて。


 西の塔からはレーグルの街の明りがよく見える。それは限りなく新月に近い晩だからだろうか。

 そう言えば、と懐から笛を取り出した。この場所でこの笛をヴァイスから手渡されたのが満月の晩だった。日にちが経つのは早いものだ。

 眉間に皺を寄せる。

 日にち、時間、刻の流れ。改めて何を考えているのだ。

今まで時間など、月日など、作戦を行う上での指針に過ぎなかったはずなのに。

 誰か来る。

 皺を寄せたままの顔で螺旋階段への入り口を見た。

「どうやら相性がいいらしいな」

 そう言って姿を見せたのはヴァイスだった。平民のまとうような粗末な衣服の上から支給品の外套を羽織っている。その姿はとうていブラットバーンズの隊長補佐には見えなかった。だがシビルは違う。どんな衣を身へまとわせようと、その腰にある魔剣コルブラントの存在がシビルをシビルたらしめる。

「しかし休暇中だというのに、城に篭ったままでは普段と変わらないな」

 ヴァイスはシビルの横に並ぶと手すりに背中からもたれた。闇に埋もれそうなその黒髪が、夜風を受けて軽くなびく。

「まぁ、オレも同じだがな」

 そう言って喉元を見せるように夜空を見上げながらヴァイスが笑った。

その隣でシビルは街の明りに目を向けたまま左手だけを手すりに置く。

 そして二人はしばし沈黙する。

「笛を、吹いてみろ」

 唐突な言葉でヴァイスは沈黙を破った。シビルはわずかに眉を動かして隣を見た。

「やり方が判らない」

「いいから出してみろ」

 ヴァイスの言葉にシビルは懐からもう一度笛を取り出した。そして両手で笛を持ち上げて口元にあてがうがそれからが判らない。その様子を見たヴァイスは笑いながらシビルの後ろへ回り込み、

「オレが動かす通りにやればいい」

 抱きしめるように両腕を回してシビルの指の上から笛を押えた。

ヴァイスの行動に戸惑うシビルだが、言われるがままに指を動かす。

ヴァイスが自分の指でシビルの指を押す、シビルが押された指で笛を押す。

人差し指、中指、薬指、押えては離し、離しては押える。

「音を出してみろ」

 一通りの型を繰り返した所で、ヴァイスが耳元でささやくように言った。

言われるがままにシビルは笛に息を吹きかけた。

それまで単なる指の運動でしかなかったものが、その途端に演奏へと変化を遂げる。

音が生み出される。その手の中から。

 三度、同じ旋律を繰り返した所でヴァイスが離れた。

 音が止む。

「覚えたな」

「多分」

 笛から口を離したシビルが答えた。それを聞いたヴァイスが笑ったような気がした。

月明りの乏しいこの夜では判りにくかったが、いつものあきらめたような笑顔ではなく本当の笑顔が見えた。

 多分。

 ヴァイスは背中を向けると螺旋階段の入り口へと戻って行った。その途中で一度立ち止まり、背中を向けたまま一言だけ言ってから階段を降りていった。

「忘れるなよ」

 それが最後の言葉だった。


 更に数日がたった日の朝、部屋の外がやけに騒々しい事に気が付いたシビルは扉を開けて廊下へと出た。するとそこにウォーレスが居た。

「さあ、歩くんだ!」

「わ、ワシが何を」

 正しくは二人の近衛兵に連行されるウォーレスの姿があった。

その周囲では通りすがりの文官や、シビルのように部屋から出てきた士官たちが声を潜めて話し合っていた。そしてそれはどれもが目の前の光景を突拍子もなく、そして信じられないといった内容だった。

 そのままウォーレスは城の東区画の方へ連れていかれた。そこにはシビルでさえ無断で立ち入る事のできない地下施設がある。閉鎖された旧研究室に、牢獄、そして拷問室。

 なおも憶測だけを口にする連中を無視してシビルは歩き出していた。

行き先はこの士官宿舎B三十六号室、ウォーレスが連行された理由を知るもう一人の人物、ヴァイスの自室へ。

 しかし行って、会ってどうするつもりなのか。何がしたいのか。

シビルは扉を開ける直前までその事を問い続け、結局答えらしきものは何もでなかった。 

 何より、扉の向こうに誰もいなかったのだからその問い自体が無意味だった。

 ヴァイスの部屋もシビルの部屋と同じく殺風景なものだった。違いあるとすれば、机の上に置かれた書物の山だろうか。主のいない部屋に足を踏み入れたシビルは、その山の一番上にある本を手に取って見てみる。ジノ・エーレンベルグ著『剣と旗』。著者の名前は聞き覚えがる。確か二十年ほど前に彷徨の剣闘士として名を馳せた人物のはずだ。しかしそれだけだ。

 シビルは本を机の上に戻すと部屋を後にした。

「シビル隊長、ここにおられましたか」

 扉を閉めた所で、廊下を歩いてきた文官に呼びとめられた。

「陛下がお呼びです。すぐに謁見の間におこし下さい」


 玉座に越しかけるガルドの右隣には、珍しくステンノー第一皇女が姿を見せていた。

皇女といってもステンノーは両脇に居並ぶ近衛隊の隊長を勤めている。

紫色の鎧に身を包んだその姿は良くも悪くもガルドの因子を十二分に受け継いでいた。

「・・・・・・以上の報告からネルヴェにレジスタンスどもの本拠地があるものと推定される」

 鎧と同じく紫に塗られたその唇からレジスタンスに関する情報がシビルに伝えられる。

ガルドが夏至の陽の光だとすれば、ステンノーは真冬の地吹雪の中できらめく氷の光のようだった。

「また奴等はネルヴェにその兵力を集結させつつあるとも聞く。この機会を逃す手はない。

すでにブラットバーンズ及び近衛の精鋭から成る討伐隊の本隊はネルヴェへ向けて出立させてある。

シュヴィレアー・シュタウフェインよ、この討伐隊を指揮して帝国に歯向かう愚か者どもを根絶やしにせよ!」

「仰せのままに」

 謁見の間に響き渡るステンノーのその凛とした声にシビルは頭を下げながら答えた。

「シビルよ」

 続いてガルドが声を掛ける。

「今回の任務は今までになく過酷なものになる。心して行ってくるのだ」

 そう言うとガルドは玉座から立ちあがり、階段を降りてひざまずくシビルの前まで進んだ。

シビルは顔を上げその目を見た。

「レジスタンスのリーダーを打ち倒せ。その為に魔剣コルブラントをお前に与えたのだからな」

 その目は笑っていた。 それは子供のような笑みだった。蝶の羽根を無邪気に引き裂く子供のような。

「はっ、行って参ります」

 ガルドと、ステンノーと、そして近衛兵に見送られながらシビルは謁見の間を後にした。

そして城に残っていた討伐隊の分隊と共にネルヴェを目指す。ネルヴェはアルジェ山脈の西端にある地方都市の名。

そしてそこはやがて戦場の名となる。

 この時はまだガルドの笑みの理由も、この作戦の真意も、そしてネルヴェの街が自分の運命を二度に渡って大きく変える事になる事も、シビルは知る由もなかった。


「意外と父上は執念深いようで」

「ククッ、けなされているのか、余は?」

「いえ、誉めているのですよ」

 ステンノーは素知らぬ顔でそう言った。


 予感のようなものはあった。

付き従う部下の表情、仕草、会話、具体的にどれからどのように推察したかと挙げる事はできないが、とにかくシビルは自分の置かれている状況の変化にさして驚きはしなかった。

「シビル隊長、覚悟!」

 下草を踏みつけながら近衛の兵士が走り込んでくる。

見知った顔ではあったが特に親しみも憎しみもある訳ではない。シビルは無言のままその兵士を切り捨てた。

兵士の剣はシビルを捉えるには遅く、シビルの剣は兵士が避けるには速すぎた。

「いたぞー、こっちだー!」

 等間隔に並び経つ木々の彼方で誰かが叫んだ。ガチャガチャと鎧を鳴らしながら兵士たちがこちらへ向かってくる。

植林の行き届いた森は身を隠す場所としては余り都合はよくない。

シビルは魔剣コルブラントの刀身をさらしたまま走り出した。

「逃がすな、追え!」

「首級を挙げりゃ小隊長に昇格だ!」

 今の声はボーナムだな。橙色の木洩れ日の彼方に一際大きな人影が見えた。

近衛兵は訓練こそ行き届いているが教科書通りの型しか取らないから相手にする分には楽だ。問題は我流と言えば聞こえはいいが型もへったくれもありはしない傭兵たちだ。

 ネルヴェ攻略の為にブラットバーンズと近衛隊から精鋭を集めた討伐隊。

先行した本隊を追ってシビルと共にネルヴェに向かっていたその分隊。その分隊にシビルは追われていた。

「だから夜になってから寝込みを襲おうっていったんだよ」

「うるせえ、俺に指図する気か!」

 馬鹿が多いのが幸いした。遠くから聞こえるボーナムたちの声を聞きながらシビルは思った。

 分隊を率いてガルド城を出立したシビルだったが、アルジェ山脈の麓に広がるこの森に入った所で率いていたその分隊に囲まれた。しかし誰がシビルの首級を挙げるかで仲間割れになり、完全に包囲したはずであったのにシビルを取り逃がすという失態を演じていた。

 耳がそれを捉えた。

 シビルは倒れ込むように地面に伏した。その頭上を風を切りながら数本の矢が飛んでいき、近くの木の幹に突き刺さった。

懐から手裏剣を取り出すと立ちあがり様に矢が飛んできた方角へ投げつける。

 短い悲鳴が上がった。

 相手の生死を確認している暇はない。シビルはそのまま再び走り始めた。

 頭上を覆う木々の合間に黄昏が見える。日が沈めば格段に逃げ易くなる。

そして相手にとっては追い難くなる。兵士たちは執拗にシビルに迫る。それをシビルは切って、切って、切りまくる。肩から切り下げ、足元から切り上げ、胸元に突き差し、横一文字に首を薙ぎ払う。まるで自分を討ちに来た猟師たちを、噛み殺しながら森の奥へ逃げる狼のように。その牙に血をしたたらせながら。

 なぜだ。なぜこんな事になったのだ。

 再び矢が宙を切る。大半は木々に行く手を阻まれるが、その中の一本がシビルの左肩に食らいついた。傷が、痛みとして、脳に伝わる。痛み。そう。傷は痛いのだ。シビルは初めてその事を理解した。

 馬鹿な、何を。

 シビルは乱暴にそれを引き抜くと地面に投げ捨てた。薄暗くて判りにくかったが、その矢じりは黒色に見えた。そう言えば、毒に詳しい奴がいた。確か・・・・・・。

「元隊長さん、もう追いかけっこは止めにしましょうや」

 元の部分を強調したその声にシビルは足を止めた。金槌を手に現れたのはボーナムだった。いつの間にか回り込まれたらしい。その隣には数人の兵士を従えたアレックスの姿も見える。

「あなたも可哀想な人だ。用済みになった途端、かつての部下から命を狙われるのですから」

 背後からは弓を手にしたコージーも兵士と共に姿を現した。

「どういう、ことだ」

 挟み討ちされる形になったシビルは、魔剣コルブラントを構えながらすぐ近くの木に背中を預けた。左肩が焼けるように熱い。

「つい先日、新しい隊長が決まりましてね。あなたはもう用済みだから廃棄される事になったのですよ」

 そう言いながらコージーは弓を肩に掛けると短剣に持ち変える。その短剣も刃が黒く塗られていた。

「俺達の新しいボスはヴァイス様よ!」

 アレックスが鎖に繋がれた鉄球を振り回しながら言った。その声を聞いた兵士たちがあざ笑うかのように歯を見せた。

「何?」

 自分が追われる立場になった事は判った。しかしその名前が出てきた意味は判らなかった。ヴァイスが自分に取って代わったという事。自分を追う部隊の隊長がヴァイスであるという事。

「アンタを殺れば小隊長に格上げだとヴァイス隊長が言っていたんでね」

 ボーナムが金槌を構えながら一歩、足を踏み出した。

 ヴァイスが自分を殺せと言ったという事。

「行くぞ、野郎ども!」

『忘れるなよ』

 ボーナムの叫びと同時に、ヴァイスの言葉が脳裏でよみがえる。

 シビルを挟み込んだ十数人が、いっせいに飛びかかった。

「う」

 剣が、刃が、その武器が、その殺意が、ただ一人シビルを襲う。

「うわあああああああっ!」


 魔剣コルブラントが踊る。


 橙色だった木洩れ日はすでに紫色に変わっていた。気がつけば夜の帷が木々の根元まで降りてきている。

「く、くそっ!」

 惨状を目の当たりにしたボーナムはそう悪態をつくだけでやっとだった。

アレックスとコージーに至っては腰が抜けたのか、地面に尻を付いたまま起き上がってこない。だが生きているだけでもそれは幸運だった。

 シビルは立っていた。

 魔剣コルブラントを握るその手に力はなく、剣先は地面に着いている。ただ呆然と立ち尽くしていた。余りにも無防備に、余りにも静かに、そして余りにも不気味に。

 無数の死体に囲まれながら。

 案外時間が掛かった。シビルはそう考えていた。たかがこの程度の手数相手に。おまけにまだ三人生き残っている。

 殺そうか。

 殺せ。

 殺し尽くさなければ。

 剣先が地面から離れた。

「おい、何かこっちで聞こえたぞ!」

 紫色の彼方で叫び声がした。シビルは声のした方を見た。

「逃げろ!」

 ボーナムが叫んだ。まるで前戦から逃げ返る新兵のように、ボーナムたちは無様な格好をさらしながら森の奥へと走っていった。シビルはそれを制止する訳でもなく追う訳でもなくただ見ていた。

「早く来るんだ!」

 ランタンの明りだろうか。おぼろげな白い塊がいくつかこちらへ向かってくる。そうかレジスタンスか。だからボーナムたちは逃げたのだな。

 魔剣コルブラントが手から離れた。

 目眩がする。

 視界が揺らぐ。

 意識がかすれていく。

 そうか、毒が回ってきたのだな。

 意識が閉ざされた。


 殺して、殺して、また殺して。

 そして、どこへ行くのか。


『僕は、君だ』


 まただ、またあの声だ。


『僕は』

『君だ』

『僕は』

『君は』

『僕だ』

「お前は」


 徐々に覚醒する意識の中で人の気配を感じた。すぐ傍にすぐ傍に誰かが居る。

 シビルは体を起こすと同時に身構えた。同時に傍らにあるべきものを探す。しかし自分が横たわっていた寝台の近くにそれは、魔剣コルブラントは身当たらない。やむなく傍らに座っていた人物に鋭い視線だけをぶつけた。

「気分はどうだ」

 しかしその人物は淡々とそう問い掛けるだけだった。

 口元に髭を蓄えた壮年の男。身体付きは間違いなく戦士のそれであったが、少なくとも今は敵意はないらしい。

腰に差した剣から手は離れていた。それは位置の問題ではなく意識の問題として。

意識としては自分の手と、部屋の入り口に立てかけられていた魔剣コルブラントの方が近い。

「余りいいとは言えないな」

 毒の影響か、まだ身体が全体的に重い。しかし何らかの手当が施されたのだろう。

その重さもじきに回復するであろう事をシビルは感覚として判った。

 シビルは男を見た。自分は帝国に追われていた。そしてそれを助けた人間がいる。だとすれば。

「気付いているかも知れないが、ここはレジスタンスの本部だ」

 やはりそうか。シビルは心の中でうなづいた。

「私はグライド、レジスタンスのリーダーだ。何故あのような所でブラッドバーンス隊長が倒れていたのか、説明してもらおうか」

 シビルは自分の置かれた状況をだいたい把握した。

皇帝から切り捨てられかつての部下に命を狙われた挙げ句、レジスタンスの捕虜になったという訳だ。

「レジスタンスの本部に攻め込むつもりだった。もっとも、今ではこのザマだがな」

 グライドの問いにシビルはありのまま答えた。

別に誤魔化す必要はないし、誤魔化した所でどうかなる訳でもない。

「もうひとつだ。魔術師団長のウォーレスはどうなった」

 その言葉にあの得体の知れない瞳が脳裏によみがえった。

「ウォーレスは、俺の目の前で連行されて行った。その後のことは判らん」

「そう、か」

 グライドは大きくため息をついた。そしてシビルへその茶色の瞳を向けた。それはウォーレスと同じ得体の知れない、シビルには理解できない瞳だった。

 なぜだ。なぜこの男もその瞳で自分を見るのだ。

「あと、私からではなく彼女から質問がある」

 困惑するシビルをよそにグライドはそう言って扉へ声を掛けた。

そして短い返事の後に扉が開かれて一人の少女が姿を現した。

 そうか、もう朝になっていたのか。

 窓から差し込む陽の光に照らされて、その少女の金髪が波打ちながらきらめく。

肩の下まで流れるその輝きと腰からぶら下げた剣とは余りにも不釣り合いだった。

「森で倒れていたお前を見つけたアーネスト・エーレンベルグだ」

「アネットで結構です」

 紹介されたアネットはそう言って軽く会釈をした。

「失礼ですがあなたの荷物を調べさせてもらいました」

 そう言ってアネットは懐から笛を取り出して見せた。シビルは眉を微かに動かした。

「あなたの持っていたこの笛、どこで手に入れたのですか? あなたの物なんですか?」

 アネットはその紺碧の瞳でシビルに問いかけた。

 笛。そうそれはヴァイスから手渡された笛に間違いなかった。自分はわざわざそれを持って来ていたのか。何故だろうか。

『俺達の新しいボスはヴァイス様よ!』

 アレックスの言葉がよみがえる。

「今は、考えたくない」

 自分は裏切られたのか。いや、そもそも自分とヴァイスの関係は何だったのか。

どうして今、こんなにもヴァイスの事を考えるのが嫌なのか。心が揺れ動くのか。

「そう、判りました」

 アネットはその瞳を曇らせると、手にした笛を寝台の上に置いた。

「それだけ、どうしても聞きたかっただけですから」

 そして一礼すると、部屋の外へと歩いていった。グライドも無言でその後に続く。やがて二人の姿が消えると扉が閉ざされた。

 閉ざされただけだった。

「鍵を掛けなかったな」

 シビルは寝台の上で一人つぶやく。そのつぶやきは傍らの笛だけが聞いていた。

 それと魔剣コルブラントも。


 しばらくして、窓の外から声が聞こえてきた。何の声なのか、誰の声なのか、確かめるまでもなかった。シビルは寝台から降りると、壁に立てかけられた魔剣コルブラントを手に取った。

 重い。

 鞘から伸びるベルトを腰に巻いて固定する。

部屋の中を見回してみるが魔剣コルブラント以外の鎧などはここには置かれていなかった。魔剣コルブラントの重さを確かめながら寝台へと戻る。薄汚れたシーツの上にはまだ笛を置いたままだった。

 シビルは迷った。

 これをどうするのか。

「早く来い!」

 扉の向こうが慌ただしくなってきた。人の叫び声と、廊下を走る音に加え、金属と金属が打ち合う音も響いてくる。

 シビルは意を決して笛へ手を伸ばしてつかみ取った。

「お守り、か」

 そしてそれを懐へ収める。

 笛と魔剣、どちらに意味を求めているのか。だが今はそれを考えている余裕はない。

シビルは魔剣コルブラントを鞘から抜き放つと、鍵のかけられなかった扉へと手を掛けた。 

 扉を開け、廊下へと出る。するといつもの香りがシビルの鼻孔をついた。いつもの血と煙と死の匂い。

日も高い内からネルヴェに帝国軍が攻撃を掛けてきたのだ。

「シヴィレアー・シュタウフェインだ!」

 廊下の角から姿を現した帝国兵がシビルの姿を見るなり叫んだ。そして鎧を鳴らしながら剣を構えて突進してくる。刃が自分の身に迫る。防具を何も身に付けていないこの状況では、簡単にその刃は肉を切り裂くことだろう。

 肉が切れ、血が流れ、骨が砕ける。

 それが戦うという事。

 自分のしてきた事。

『僕は、君だ』

 声が聞こえた。その瞬間、糸を切られた操り人形のようにシビルの身体が崩れ落ちた。

力が抜ける、手にした魔剣コルブラントの重さに耐えられない。

 刃が迫る。

「黙れぇぇっ!」

 刃をかわしつつ、右足から大きく前へ踏み込む。 

 一閃。

 縦一文字に描かれた剣の軌跡の彼方で、兵士は鎧ごと真二つに切り裂かれた。鮮血が飛び散り、辺りの壁に波しぶきのような模様を描く。

『僕は、君だ』

 まだ声がする。その度に再び倒れそうになる身体を無理矢理に踏み留める。

歯を食いしばり、見開いた目で正面を見据えた。視界に再び刃が映り込む。

一本、二本、三本、無数の刃がシビルを狙う。数多の殺意がシビル包む。

 殺せ。

 殺し尽くさなければ。

 魔剣コルブラントが宙を舞う。

 殺す。

 何の為に。

 殺す為に。

 返り血を全身に浴び、身体の破片を踏みつけながら進む。

 簡単だ。人を殺す事は簡単だ。剣を振るえばいい。剣がすべてを引き裂いてくれる。ただ剣を振るえば言い。

何も考える必要はない。

『僕は、君だ』

 邪魔なものは全て排除すればいい。逃げる兵士を背中から切り裂いてから建物外に出た。外に見えるのは煙を上げる家と、地面に転がるレジスタンスと、街の辻という辻を埋め尽くす帝国兵の群。

 腕が動く。剣を振るう為に。剣を振るう為だけに。その為だけに。腕が動かされる。

「討ち取れーっ!」

 号令と共に、見渡す限りの帝国兵がいっせいに飛びかかってきた。

 殺す。

 殺せ。

 殺し尽くせ。

 指を切り、腕を切り、足を切り、首を切り、胴を切り、血を吹き出させ、臓物を吐き出させ、その口から叫び声を上げさせろ。

 殺せ、憎い、嫌だ、恐い、止めろ、逃げろ、死にたくない、助けてくれ。哀れで愚かなこの連中に死を。死を与えよ。

 この魔剣コルブラントの為に。

「いやああああああっ!」 

 心臓が鳴る。

 まるで人ごとのようだった。

 心臓が鳴る。

 人形のように、人が飛んでいく。

 心臓が鳴る。

 人形のように、人がちぎれていく。

 心臓が鳴る。

 自分の手がそうする。魔剣コルブラントがそうする。

 止められない。この手も、足も、剣も。何かどろどろとしたものが頭の中に入り込んでいく。何を考えているのか判らなくなる。

視界がおぼろげになっていく。まるで霧に包まれたかのように、まるで泥沼に沈むかのように。心が、そのどろどろしたものの中に溶けていく。

 何も聞こえない。悲鳴も、剣の音も、自分の心臓の音さえも。

 だめだ、判らない。何も判らない。

 溶けていく、薄れていく、自分が、自分の全てが。

 誰かの姿を見た気がした。

 誰かの声が聞こえた気がした。

 もうどうでもいい。このままでいい。このどろどろしたものに全てを委ねて、そして、

 消えよう。


 その時、誰かが触れた。

 誰が、どこに、それは判らない。だが確かにこの時、触れられた。シビルが知らず判らないもの。しかし知らないはずなのに、判らないはずなのに懐かしい。

 そう、自分はまだ知らない。これから知るのだから。それを、それそのものを。

 翼がはためいた。


 目の前にはグライドが居た。その後ろにはアネットと数人の男の姿が見える。それだけだった。それ以外は崩れ落ちた建物の破片に、切り裂かれた人間の破片。大地を覆うのはそれらから流れ出した赤い血。もはや人に抱かれることのない赤い血がことごとく土にしみ込んで消えていく。

 破壊、殺戮、凄惨、言葉にする事はたやすい。だがその光景を理解する事は難しかった。石畳の代わりに死体で舗装された道の上でシビルは立ち尽くしていた。

 よくは覚えていないが判っている。自分の行為を。

「これが、帝国のやり方だ」

 グライドが近付いてきて声を掛けた。見れば彼自身も手傷を負っていたが、

全身を朱に染めたシビルの前では大した風には見えない。

「俺は」

「魔剣をつかう者は、強さの代償として人の心を失っていく。そして魔剣はその主の心を食い潰しながらさらなる強さを与えるのだ」

 グライドの言葉に、シビルは右手の魔剣コルブラントを見た。あれほどの肉を切り、骨を断ち、血をすすり込んだというのに、その刀身は太陽の光りを受けて輝いていた。禍々しく、そして忌々しく。

「ガルドはお前が人の心を取り戻し始めたのを見て切り捨てたのであろう。お前が弱くなったと感じるのも、そのせいなのだ」

 そう言ってグライドはシビルの右肩をつかんだ。

「魔剣により心を奪われた結末がこれだ。いずれ、他者だけでなく、自らをも滅ぼすことになる。

失ってはならぬものを次々と失うことになる」

 何を言っているのだ、この男は。

 シビルはグライドの言わんとする事を理解しあぐねていた。だが決して聞き流してはいけない言葉だという事を感じていた。理屈ではなく感覚として、自分自身の心が。

「お前は」

 グライドが顔を上げた。その視線が、シビルの瞳へ届く。

「お前はやつら如きに心を食い潰されるだけの人間なのか!」

 叫びがシビルの耳に響き渡った。その時のグライドの瞳に何かを見つけた。ウォーレスもそうだった。

他者から自分へ向けられる何かを。忘れていただけで、実は昔から知っていたはずのそれを。

「俺は・・・・・・」

 手が震えた。しかし魔剣コルブラントを離さない。いや、離せない。今までその重さだけを頼りに生きて生きた。それが失われた時、どうすればいいのか判らない。自分にはそれしかない。

 どうすれば、どうすれば。

 振るえが腕から身体にまで及んだ時、破れほつれた服の懐から何かが落ちた。シビルは目だけを動かして足元を見た。

血がしみ込んで褐色に変化した土の上に転がる物がある。

 笛だ。

 この時、ただ一人、シビルの耳にだけそれが聞こえた。あの塔で聞き、そして奏でたあの旋律が。

「俺は・・・・・・!」

 手が離れた。


夜の海は暗い。まるで巨人の万年筆から滴り落ちたインクが溜まっているかのように黒い。果ても底も見えはしない。

辛うじて空に広がる星々の輝きが目の前のキャンバスが黒一色で塗りかためられるのを防いでいた。

 シビルは船の甲板の上で一人、海を眺めていた。できれば何も考えないように、海をみつめるその視線をぼやけさせる。しかし無意識の内に腰にあるべき重さを探している自分に気が付き、その度にぼやけさせていた視線は一点に集められた。

 何も考えない事がこんなに難しいとは思わなかった。シビルは無我で居る事をあきらめると、懐から笛を取り出して目の前に掲げた。

 ヴァイス。あいつは今まで何を考えてきた。そして今、何を考えている。自分はヴァイスの何も知らない。ただ語られた言葉からそれを察するしかない。誰にも心というものがある。しかしその中身が何なのか、他人からは判らない。

 それが人だ。

 例え自分を裏切ったとしても、その真意は判らない。

 シビルは笛を持つ手を大きく振り上げた。海を、闇を、その彼方を見つめながらその彼方へ。

「待って」

 その声にシビルは、はっとして隣を振り向いた。するといつの間にかそこにはアネットが居た。波を撫でながら流れる海風にその金髪を揺らしながらシビルの事を見つめている。いや、シビルの手を、その中に横たわるその笛を。

 ここまで近付かれていながら気配にまったく気が付かなかった自分に驚くシビルをよそに、アネットはその整った眉をわずかに歪めながらシビルの手から笛を取り上げた。

そしてしばらくその笛を眺めていたが、碧色の瞳を閉じると口元に笛を当てた。

 指の動きに合せて、一つ一つ音が出ていく。やがて音と音とが連なり、重なり、曲となって潮騒と共にシビルの元へ運ばれる。その曲をシビルはよく知っていた。当たり前だ、その曲しか知らないのだから。

 一瞬、その姿越しにアルジェの山々を見たような気がした。

「これはあなたが持っているべきなのかも知れません」

 演奏を終えたアネットはそう言って笛をシビルに差し出す。眉の歪みはもうなくなっていた。

「この笛を知っているんだな」

「ええ」

 はっきりとアネットは答えた。

「これは・・・・・・」

「こう思うのは私の考えすぎなのかも知れない」

 シビルの問いをアネットの言葉が遮った。アネットは一度視線を手元に落としてから、

再び顔を上げてシビルを見ながら続ける。

「あなたがこの笛を持っていることには、何かの理由があるんだと思う。

それが誰から、どのような形で渡されたものだとしても」

 そして更にぐっと笛を持つ手を前に出した。

「だから、これはあなたが持っておくべきものなんだと思う」

 差し出された笛は、まるで蛮剣のように重たく見えた。その笛を受け取る事を、再び手に持つ事をシビルは躊躇した。

「判った」

 しかし最後にはそう決めた。自分自身でそれを決め、自分自身の手でそれを受け取る。自分自身を見失わない為に。

 笛を握りしめたシビルを見てアネットが笑った。しかしそれは力のない、諦めたような笑いだった。月の光が太陽の光に比べて弱々しいのと同じように。

「落ち着いたようだな」

 そう言ってグライドが現れるとその笑みは消えた。

「ランバートに向かっているのか」

 笛をしまいながらグライドの方へ向き直るとシビルは訪ねた。

「生き残ったものはごく少ない同志だけだ。もはや我々だけではどうすることもできん。

ランバート国王ならば我々の力になってくれるはずだ」

 新月の夜であるにも関わらず、グライドはこの船を強引に出港させた。

ネルヴェに派遣された帝国軍はそのほとんどがシビルによって惨殺されたとはいえ、

その損害は帝国軍全体に比べればわずかでしかない。もはやレジスタンスは抵抗勢力とは言えなくなっていた。

「明日の朝にはランバートに着く、休めるうちに休んでおけ」

 グライドの言葉を聞いたアネットは、軽く頭を下げて挨拶すると船室へと戻って行った。

甲板の上にはシビルとグライドだけが残された。思わずシビルは身体を軽く動かした。あの重さを確かめる為に。

しかしそれはもうここにはない。

 シビルの眉間に皺が寄る。

「俺は」

「私は今すぐにレジスタンスとして帝国と戦えなどとは言わない」

 まるで釘を刺すかのようにグライドは言った。

「今はまだ判らないだろうが、お前の無くしたものは、とても大きなものだ。そして容易に取り戻せるものではない」

 その太い両腕が伸ばされたかと思うと、シビルの両肩をがっしりと掴んだ。強く、力強く。その指一本一本に込められた力が肩越しにシビルに伝わる。

「だから、しばらくは自分が与してきた流れを別の視点から見てみるがいい」

 シビルとグライドはお互いを見た。同じその濃い茶色の瞳で。瞳だけは二人とも同じだった。

「それから先は、自分で考え自分で決めろ」

 そう言って両手を離すと、グライドも再び船室へと戻って行った。

 グライドの姿が消えてから、シビルは両手で自分の両肩を抱いた。まだあの指の感覚が残っている。

その感覚に自分の手を重ねるように力を込めた。

「俺が、俺として、自分で」

 呪文のように一人つぶやく。

 恐い。まるでたった一人で荒れ果てた広野に放り出されたようで。自分の周りに何も無いような錯覚さえ覚える。そして自分の中にさえ何も無いような感覚さえも。

 いや、それは違う。

 唐突にシビルは思った。違う、何も無い訳じゃない。多分、何も知らないだけ、何も気が付かないだけなのだ。蓋された井戸の前で水が無いとわめいているようなものなのだ。

 そうだ、そうなのだろう。

 シビルは両手を離すと再び海を見た。その彼方にはランバート王国があるはずだった。

大森林に国土の大半を覆われた、未だなお神話の息づく伝説の地。

 夜の闇の彼方に、白い羽根を見た。



<第一部 終>


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